めたい井戸水に顔を洗って、省作もようやく生気づいた。いくらかからだがしっかりしてきはきたが、まだ痛いことは痛い。起きないうちはわからなかったが、起きて歩いて見ると股根《ももね》が非常に痛む。とても直立しては歩けない。省作はようやくのことよちよち腰をまげつつ歩いて井戸ばたへ出たくらいだ。下女のおはまがそっと横目に見てくすっと笑ってる。
「このあまっこめ、早く飯をくわせる工夫でもしろ……」
「稲刈りにもまれて、からだが痛いからって、わしおこったってしようがないや、ハハハハハハ」
「ばかア手前《てめえ》に用はねい……」
 省作はこれで今日は稲が刈れるかしらと思うほど、五体がみしみしするけれど、下女にまで笑われるくらいだから、母にこそ口説いたものの、ほかのものには決して痛いなどと言わない。
 省作は今年十九だ。年の割合には気は若いけれど、からだはもう人並み以上である。弱音を吹いて見たところで、いたずらに嘲笑《ちょうしょう》を買うまでで、だれあって一人同情をよせるものもない。だれだってそうだといわれて見るとこれきりの話だ。
 省作も今は、なあにという気になった。今日の稲刈りで、よし田ん中へ這《は》ったって、苦しいのなんのというもんかと力んで見る。省作はしばらく井戸ばたにたたずんで気を養うている。井戸から東へ二間ほどの外は竹藪《たけやぶ》で、形ばかりの四つ目垣がめぐらしてある。藪には今|藪鶯《やぶうぐいす》がささやかな声に鳴いてる。垣根のもとには竜《りゅう》の髭《ひげ》が透き間なく茂って、青い玉のなんともいえぬ美しい実が黒い茂り葉の間につづられてある。竜の髭の実は実《じつ》に色が麗しい。たとえて言いようもない。あざやかに潤いがあるとでも言ったらよいか。藪から乗り出した冬青《もち》の木には赤い実が沢山なってる。渋味のある朱色《しゅいろ》でいや味のない古雅な色がなつかしい。省作は玉から連想して、おとよさんの事を思い出し、穏やかな顔に、にこりと笑みを動かした。
「あるある、一人ある。おとよさんが一人ある」
 省作はこうひとり言にいって、竜の髭の玉を三つ四つ手に採った。手のひらに載せてみて、しみじみとその美しさに見とれている。
「おとよさんは実に親切な人だ」
 また一言いって玉を見ている。
 省作はからだは大きいけれど、この春中学を終えて今年からの百姓だから、何をしても手回しがのろい。昨日の稲刈りなどは随分みじめなものであった。だれにもかなわない。十四のおはまにも危うく負けるところであった。実は負けたのだ。
「省さん、刈りくらだよ」
 というような掛け声で十四のおはまに揉《も》み立てられた。
「くそ……手前なんかに負けるものか」
 省作も一生懸命になって昼間はどうにか人並みに刈ったけれど、午後も二時三時ごろになってはどうにも手がきかない。おはまはにこにこしながら、省作の手もとを見やって、
「省さんはわたしに負けたらわたしに何をくれます……」
「おまえにおれが負けたら、お前のすきなもの何でもやる」
「きっとですよ」
「大丈夫だよ、負ける気づかいがないから」
 こんな調子に、戯言《じょうだん》やら本気やらで省作はへとへとになってしまった。おはまがよそ見をしてる間に、おとよさんが手早く省作のスガイ藁《わら》を三十本だけ自分のへ入れて助《たす》けてくれたので、ようやく表面おはまに負けずに済んだけれど、そういうわけだから実はおはまに三十本だけ負けたのだ。
 省作はここにまごまごしていると、すぐ呼びたてられるから、今しばらく家のものの視線を避けようとしていると、おはまが水くみにきた。
「省さん、今日はきっと負かしてやります」
「ばかいえ、手前なんかに片手だって負けっこなしだ」
「そっだらかけっこにせよう」
「うん、やろ」
 おはまはハハハッと笑って水をくむ。
「はま……だれかおれを呼んだら、便所にいるってそういえよ」
「いや裏の畑に立ってるってそういってやらア」
「このあまめ」
 省作は例の手段で便所策を弄《ろう》し、背戸《せど》の桑畑へ出てしばらく召集を避けてる。はたして兄がしきりと呼んだけれど、はま公がうまくやってくれたからなお二十分間ほど骨を休めることができた。
 朝露しとしとと滴《こぼ》るる桑畑の茂り、次ぎな菜畑、大根畑、新たに青み加わるさやさやしさ、一列に黄ばんだ稲の広やかな田畝《たんぼ》や、少し色づいた遠山の秋の色、麓《ふもと》の村里には朝煙薄青く、遠くまでたなびき渡して、空は瑠璃色《るりいろ》深く澄みつつ、すべてのものが皆いきいきとして、各《おのおの》その本能を発揮しながら、またよく自然の統一に参合している。省作はわれ自らもまた自然中の一物《いちぶつ》に加わり、その大いなる力に同化せられ、その力の一端がわが肉体にもわが精神にも通いきて、新たなる
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