て昨日のおとよさんの様子を思い出した。政さんのいうことも本当だ。おとよさんは隣に嫁になってるとはかわいそうだ。なるほど政さんのいうとおり隣にゃいないかもしれない。そう思うとまた妙におとよさんがなつかしくなって別れたくないような気がするのである。
「省作さん、ちっとお話しなさいよ。何か考えてるね。ハハハハ」
 省作は、はっとしたけれど例のごとく穏やかな笑いをして政さんの方へ向く。政さんは快活に笑って三つの繩をなってしまった。省作が二つ終えないうちに政さんはちょろり三つなってしまった。満蔵は二俵目の米を倉から出してきて臼《うす》へ入れてる。おはまは芋を鍋いっぱいに入れてきて囲炉裏《いろり》にかけた。あとはお祖母さんに頼んでまた繩ないにかかる。
 満蔵はほどよく米を臼に入れて俵は元の倉へ戻し、臼へ腰を掛けつつしばらく人の話を聞いているうち、調子はずれな声を出して、
「きょうは省作さアにおごってもらうんだっけ。おらアたしかな証拠を見たんだ」
 意外な満蔵の話に人々興がり一斉《いっせい》に笑いをもって満蔵の話を迎える。
「省作さんにおごらねけりゃなんねい事があるたアこりゃおもしれい。満蔵君早く話したまえ。省作さんもおごるならまたそのように用意が入るから」
 政さんに促されて満蔵は重い口を切った。
「おとよさアが省作さアに惚れてる」
「さアいよいよおもしれい。どういう証拠を見た、満蔵さん。省作さんもこうなっちゃおごんなけりゃなんねいな」
 口軽な政さんはさもおもしろそうに相言《あいこと》をとる。
「満蔵何をぬかすだい」
 省作はそうは言ったものの不思議と顔がほてり出した。満蔵はとんだことを言い出して困ったと思うような顔つきで、
「昨日の稲刈りでおとよさアは、ないしょで省作さアのスガイ一|把《わ》すけた。おれちゃんと見たもの。おとよさアは省作さアのわき離れねいだもの。惚れてるに違いねい」
 おはまは目をぎろっとして満蔵を見た。省作はもう顔赤くして、
「うそだうそだ。そらおとよさんはおれがあんまり稲刈りが弱いから、ないしょで助《す》けてくれたには相違ないけど、そりゃおとよさんの親切だよ。何も惚れたのどうのってい事はありゃしない。ばか満《まん》め何をいうんだえ」
 省作も一生懸命弁解はしたものの何となしきまりが悪い。のみならずあるいはおとよさんにそんな心があるのかとも思われるから、いよいよ顔がほてって胸が鳴ってきた。満蔵はそれ以上を言う働きはないから急いで米を搗きだす。政さんはいよいよ興がって、
「こりゃわかんねい。そこまで満蔵さんに見られちゃア、とにかく省作さんはおごるが至当だっぺい。うん人の女房《にょうぼ》だって何だって、女に惚れられっちは安くない、省作さん……」
 兄はまさかそんな話の仲間にもなれないだろう、むずかしい顔をしている。政さんは兄の顔に気がついて、言いだした話を引っ込ませかける。突然囲炉裏ばたの障子があいて母が顔を出した。
「満蔵」
「はあ」
「お前、今おとよさんの事を言ったねい」
「はあ」
 満蔵はもうたいへんな事になったと思ってか、色青くして目がはや潤んでる。
「お前どんなことを見たかしんねいが、おとよさんはお前隣の嫁だろ。家の省作だってこれから売る体じゃないか。戯言《じょうだん》に事欠いて、人の体さ疵《きず》のつくような事いうもんじゃない。わしが頼むからこれからそんな事はいわないでくろ」
「はア」
 満蔵はもう恐れ入ってしまって、申しわけも出ない。正直な満蔵は真から飛んだ事を言ってしまったとの後悔が、隠れなく顔にあらわれる。満蔵が正直あふれた無言の謝罪には、母もその上しかりようないが、なお母は政さんにもそれと響くよう満蔵に強く念を押す。
「ねい満蔵、ちょっとでもそんなうわさを立てられると、おとよさんのため、また省作のため、本当に困ったことになるからね。忘れてもそんなことを言うてくれるな。えいか」
「はア」
 事はまじめになって話は火の消えたようになった。するとうわさを言えば影とやらで、どうやらおとよさんの声がする。竈屋《かまや》の裏口から、
「背戸口から御免くださいまし」
 例の晴ればれした、りんの音《ね》のような声がすると、まもなくおとよさんは庭場へ顔を出した。にっこり笑って、
「まあにぎやかなこと。……うっとしいお天気でございます。お祖母さんなんですか。あそうですか、どうもごちそうさま」
 今まで唯一の問題になっていた本人が、突然はいってきたのだから、みんな相顧みて茫然自失というありさまだ。さすがの政さんも今までお前さんのうわさをしていたのさとは言いかねて、一心に繩をなうふうにしている。おとよさんはみんなにお愛想をいうて姉のいる方へ上がった。何か機《はた》の器具を借りに来たらしい。
 やがて芋《いも》が煮えたというの
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