優美に眼にとまった。そうなると恐ろしいもので、物を云うにも思い切った言《こと》は云えなくなる、羞《はず》かしくなる、極りが悪くなる、皆例の卵の作用から起ることであろう。
 ここ十日ほど仲垣の隔てが出来て、ロクロク話もせなかったから、これも今までならば無論そんなこと考えもせぬにきまって居るが、今日はここで何か話さねばならぬ様な気がした。僕は初め無造作に民さんと呼んだけれど、跡は無造作に詞《ことば》が継がない。おかしく喉《のど》がつまって声が出ない。民子は茄子を一つ手に持ちながら体を起して、
「政夫さん、なに……」
「何でもないけど民さんは近頃へんだからさ。僕なんかすっかり嫌いになったようだもの」
 民子はさすがに女性《にょしょう》で、そういうことには僕などより遙に神経が鋭敏になっている。さも口惜《くや》しそうな顔して、つと僕の側へ寄ってきた。
「政夫さんはあんまりだわ。私がいつ政夫さんに隔てをしました……」
「何さ、この頃民さんは、すっかり変っちまって、僕なんかに用はないらしいからよ。それだって民さんに不足を云う訣ではないよ」
 民子はせきこんで、
「そんな事いうはそりゃ政夫さんひどいわ、御無理だわ。この間は二人を並べて置いて、お母さんにあんなに叱られたじゃありませんか。あなたは男ですから平気でお出でだけど、私は年は多いし女ですもの、あァ云われては実に面目がないじゃありませんか。それですから、私は一生懸命になってたしなんで居るんでさ。それを政夫さん隔てるの嫌になったろうのと云うんだもの、私はほんとにつまらない……」
 民子は泣き出しそうな顔つきで僕の顔をじいッと視《み》ている。僕もただ話の小口にそう云うたまでであるから、民子に泣きそうになられては、かわいそうに気の毒になって、
「僕は腹を立って言ったでは無いのに、民さんは腹を立ったの……僕はただ民さんが俄に変って、逢っても口もきかず、遊びにも来ないから、いやに淋しく悲しくなっちまったのさ。それだからこれからも時時は遊びにお出でよ。お母さんに叱られたら僕が咎《とが》を背負うから……人が何と云ったってよいじゃないか」
 何というても児供だけに無茶なことをいう。無茶なことを云われて民子は心配やら嬉しいやら、嬉しいやら心配やら、心配と嬉しいとが胸の中で、ごったになって争うたけれど、とうとう嬉しい方が勝を占めて終った。なお三言四言話をするうちに、民子は鮮かな曇りのない元の元気になった。僕も勿論愉快が溢《あふ》れる……、宇宙間にただ二人きり居るような心持にお互になったのである。やがて二人は茄子のもぎくらをする。大きな畑だけれど、十月の半過ぎでは、茄子もちらほらしかなって居ない。二人で漸《ようや》く二升ばかり宛《ずつ》を採り得た。
「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」
 民子はいつしか笊を下へ置き、両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。西の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が今その半分を山に埋めかけた処、僕は民子が一心入日を拝むしおらしい姿が永く眼に残ってる。
 二人が余念なく話をしながら帰ってくると、背戸口の四つ目垣の外にお増がぼんやり立って、こっちを見て居る。民子は小声で、
「お増がまた何とか云いますよ」
「二人共お母さんに云いつかって来たのだから、お増なんか何と云ったって、かまやしないさ」
 一事件を経《ふ》る度に二人が胸中に湧いた恋の卵は層《かさ》を増してくる。機に触れて交換する双方の意志は、直《ただち》に互いの胸中にある例の卵に至大な養分を給与する。今日の日暮はたしかにその機であった。ぞっと身振いをするほど、著しき徴候を現したのである。しかし何というても二人の関係は卵時代で極《きわ》めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自ら疚《やま》しい様なこともせぬ。従ってまだまだ暢気《のんき》なもので、人前を繕《つくろ》うと云う様な心持は極めて少なかった。僕と民子との関係も、この位でお終いになったならば、十年忘れられないというほどにはならなかっただろうに。
 親というものはどこの親も同じで、吾子をいつまでも児供のように思うている。僕の母などもその一人に漏れない。民子はその後時折僕の書室へやってくるけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。先に僕に厭味《いやみ》を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。僕等二人の精神状態は二三日と云われぬほど著しき変化を遂げている。僕の変化は最も甚《はなはだ》しい。三日前には、お母さんが叱れば私が科《とが》を背負うから遊びにきてとまで無茶を云うた僕が、今日はとてもそんな訣のものでない。民子が少し長居をすると、もう気が咎めて心配でならなくなった。
「民さん、またお出《いで》よ、余り長く居ると人がつまらぬことを云うから」
 民子も心持は同じだけれど、僕にもう行けと云われると妙にすねだす。
「あレあなたは先日何と云いました。人が何と云ったッてよいから遊びに来いと云いはしませんか。私はもう人に笑われてもかまいませんの」
 困った事になった。二人の関係が密接するほど、人目を恐れてくる。人目を恐れる様になっては、もはや罪悪を犯しつつあるかの如く、心もおどおどするのであった。母は口でこそ、男も女も十五六になれば児供ではないと云っても、それは理窟の上のことで、心持ではまだまだ二人をまるで児供の様に思っているから、その後民子が僕の室《へや》へきて本を見たり話をしたりしているのを、直ぐ前を通りながら一向気に留める様子もない。この間の小言も実は嫂《あによめ》が言うから出たまでで、ほんとうに腹から出た小言ではない。母の方はそうであったけれど、兄や嫂やお増などは、盛に蔭言をいうて笑っていたらしく、村中の評判には、二つも年の多いのを嫁にする気かしらんなどと専《もっぱら》いうているとの話。それやこれやのことが薄々二人に知れたので、僕から言いだして当分二人は遠ざかる相談をした。
 人間の心持というものは不思議なもの。二人が少しも隔意なき得心上の相談であったのだけれど、僕の方から言い出したばかりに、民子は妙に鬱《ふさ》ぎ込んで、まるで元気がなくなり、悄然《しょうぜん》としているのである。それを見ると僕もまたたまらなく気の毒になる。感情の一進一退はこんな風にもつれつつ危くなるのである。とにかく二人は表面だけは立派に遠ざかって四五日を経過した。

 陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故《わけゆえ》、野の仕事も今日一渡り極《きま》りをつけねばならぬ所から、家中手分けをして野へ出ることになった。それで甘露的恩命が僕等|両人《ふたり》に下ったのである。兄夫婦とお増と外に男一人とは中稲《なかて》の刈残りを是非刈って終《しま》わねばならぬ。民子は僕を手伝いとして山畑の棉《わた》を採ってくることになった。これはもとより母の指図で誰にも異議は云えない。
「マアあの二人を山の畑へ遣るッて、親というものよッぽどお目出たいものだ」
 奥底のないお増と意地曲りの嫂とは口を揃えてそう云ったに違いない。僕等二人はもとより心の底では嬉しいに相違ないけれど、この場合二人で山畑へゆくとなっては、人に顔を見られる様な気がして大いに極りが悪い。義理にも進んで行きたがる様な素振りは出来ない。僕は朝飯前は書室を出ない。民子も何か愚図愚図して支度もせぬ様子。もう嬉しがってと云われるのが口惜しいのである。母は起きてきて、
「政夫も支度しろ。民やもさっさと支度して早く行け。二人でゆけば一日には楽な仕事だけれど、道が遠いのだから、早く行かないと帰りが夜になる。なるたけ日の暮れない内に帰ってくる様によ。お増は二人の弁当を拵《こしら》えてやってくれ。お菜はこれこれの物で……」
 まことに親のこころだ。民子に弁当を拵えさせては、自分のであるから、お菜などはロクな物を持って行かないと気がついて、ちゃんとお増に命じて拵えさせたのである。僕はズボン下に足袋《たび》裸足《はだし》麦藁帽《むぎわらぼう》という出で立ち、民子は手指《てさし》を佩《は》いて股引《ももひき》も佩いてゆけと母が云うと、手指ばかり佩いて股引佩くのにぐずぐずしている。民子は僕のところへきて、股引佩かないでもよい様にお母さんにそう云ってくれと云う。僕は民さんがそう云いなさいと云う。押問答をしている内に、母はききつけて笑いながら、
「民やは町場者《まちばもの》だから、股引佩くのは極りが悪いかい。私はまたお前が柔かい手足へ、茨《いばら》や薄《すすき》で傷をつけるが可哀相だから、そう云ったんだが、いやだと云うならお前のすきにするがよいさ」
 それで民子は、例の襷《たすき》に前掛姿で麻裏草履という支度。二人が一斗笊|一個宛《ひとつずつ》を持ち、僕が別に番《ばん》ニョ片籠《かたかご》と天秤《てんびん》とを肩にして出掛ける。民子が跡から菅笠《すげがさ》を被《かむ》って出ると、母が笑声で呼びかける。
「民や、お前が菅笠を被って歩くと、ちょうど木の子が歩くようで見っともない。編笠がよかろう。新らしいのが一つあった筈だ」
 稲刈連は出てしまって別に笑うものもなかったけれど、民子はあわてて菅笠を脱いで、顔を赤くしたらしかった。今度は編笠を被らずに手に持って、それじゃお母さんいってまいりますと挨拶して走って出た。
 村のものらもかれこれいうと聞いてるので、二人揃うてゆくも人前恥かしく、急いで村を通抜けようとの考えから、僕は一足先になって出掛ける。村はずれの坂の降口《おりぐち》の大きな銀杏《いちょう》の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃《たんぼ》がある。色よく黄ばんだ晩稲《おくて》に露をおんで、シットリと打伏した光景は、気のせいか殊に清々《すがすが》しく、胸のすくような眺めである。民子はいつの間にか来ていて、昨日の雨で洗い流した赤土の上に、二葉三葉銀杏の葉の落ちるのを拾っている。
「民さん、もうきたかい。この天気のよいことどうです。ほんとに心持のよい朝だねイ」
「ほんとに天気がよくて嬉しいわ。このまア銀杏の葉の綺麗なこと。さア出掛けましょう」
 民子の美しい手で持ってると銀杏の葉も殊に綺麗に見える。二人は坂を降りてようやく窮屈な場所から広場へ出た気になった。今日は大いそぎで棉を採り片付け、さんざん面白いことをして遊ぼうなどと相談しながら歩く。道の真中は乾いているが、両側の田についている所は、露にしとしとに濡《ぬ》れて、いろいろの草が花を開いてる。タウコギは末枯《うらが》れて、水蕎麦蓼《みずそばたで》など一番多く繁っている。都草も黄色く花が見える。野菊がよろよろと咲いている。民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、民子は聞えないのかさっさと先へゆく。僕は一寸|脇《わき》へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。
 民子は一町ほど先へ行ってから、気がついて振り返るや否や、あれッと叫んで駆け戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好《この》もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
 民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
 民子はこれからはあなたが先になってと云いな
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