って叱っては、あんまり可哀相ですわ」
お増が共泣きをして言訣をいうたので、もとより民子は憎くない母だから、俄に顔色を直して、
「なるほどお増がそういえば、私も少し勘違いをしていました。よくお増そういうてくれた。私はもうすっかり心持がなおった。民や、だまっておくれ、もう泣いてくれるな。民やも可哀相であった。なに政夫は学校へ行ったんじゃないか、暮には帰ってくるよ。なアお増、お前は今日は仕事を休んで、うまい物でも拵《こしら》えてくれ」
その日は三人がいく度もよりあって、いろいろな物を拵えては茶ごとをやり、一日面白く話をした。民子はこの日はいつになく高笑いをし元気よく遊んだ。何と云っても母の方は直ぐ話が解るけれど、嫂が間《ま》がな隙《すき》がな種々《いろいろ》なことを言うので、とうとう僕の帰らない内に民子を市川へ帰したとの話であった。お増は長い話を終るや否やすぐ家へ帰った。
なるほどそうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、か弱い望も絶えたも同様。心細さの遣瀬《やるせ》がなく、泣くより外に詮《せん》がなかったのだろう。そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なるほどなどと思うと、再び熱い涙が漲《みなぎ》り出してとめどがない。僕はしばらくの間、涙の出るがままにそこにぼんやりして居った。その日はとうとう朝飯もたべず、昼過ぎまで畑のあたりをうろついてしまった。
そうなると俄《にわか》に家に居るのが厭でたまらない。出来るならば暮の内に学校へ帰ってしまいたかったけれど、そうもならないでようやくこらえて、年を越し元日一日置いて二日の日には朝早く学校へ立ってしまった。
今度は陸路市川へ出て、市川から汽車に乗ったから、民子の近所を通ったのであれど、僕は極りが悪くてどうしても民子の家へ寄れなかった。また僕に寄られたらば、民子が困るだろうとも思って、いくたび寄ろうと思ったけれどついに寄らなかった。
思えば実に人の境遇は変化するものである。その一年前までは、民子が僕の所へ来て居なければ、僕は日曜のたびに民子の家へ行ったのである。僕は民子の家へ行っても外の人には用はない。いつでも、
「お祖母さん、民さんは」
そら「民さんは」が来たといわれる位で、或る時などは僕がゆくと、民子は庭に菊の花を摘んで居た。僕は民さん一寸《ちょっと》御出でと無理に背戸へ引張って行って、二
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