《みなみすみ》に、二畳の小座敷がある。僕が居ない時は機織場《はたおりば》で、僕が居る内は僕の読書室にしていた。手摺窓《てすりまど》の障子を明けて頭を出すと、椎の枝が青空を遮《さえぎ》って北を掩《おお》うている。
 母が永らくぶらぶらして居たから、市川の親類で僕には縁の従妹《いとこ》になって居る、民子という女の児が仕事の手伝やら母の看護やらに来て居った。僕が今忘れることが出来ないというのは、その民子と僕との関係である。その関係と云っても、僕は民子と下劣な関係をしたのではない。
 僕は小学校を卒業したばかりで十五歳、月を数えると十三歳何ヶ月という頃、民子は十七だけれどそれも生れが晩《おそ》いから、十五と少しにしかならない。痩《や》せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味《あかみ》をおんだ、誠に光沢《つや》の好い児であった。いつでも活々《いきいき》として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。
 勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、障子をはたくと云っては僕の座敷へ這入《はい》ってくる、私も本が読みたいの手習がしたいのと云う、たまにはハタキの柄で僕の背中を突いたり、僕の耳を摘まんだりして逃げてゆく。僕も民子の姿を見れば来い来いと云うて二人で遊ぶのが何より面白かった。
 母からいつでも叱られる。
「また民やは政の所へ這入《はい》ってるナ。コラァさっさと掃除をやってしまえ。これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。民やは年上の癖に……」
 などと頻《しき》りに小言を云うけれど、その実《じつ》母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言もきまっている。
「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫えなくては女|一人前《いちにんまえ》として嫁にゆかれません」
 この頃僕に一点の邪念が無かったは勿論であれど、民子の方にも、いやな考えなどは少しも無かったに相違ない。しかし母がよく小言を云うにも拘《かかわ》らず、民子はなお朝の御飯だ昼の御飯だというては僕を呼びにくる。呼びにくる度に、急いで這入って来て、本を見せろの筆を借せのと云ってはしばらく遊んでいる。その間にも母の薬を持ってきた帰りや、母の用を達《た》した帰りには、きっと僕の所へ這
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