であると見られぬことはない。普通な人間の親父なる彼が境涯を哀れに思うなどは、出過ぎた料簡《りょうけん》じゃあるまいか。まずまず寝ることだと、予は雨戸を閉めようとして、外の空気の爽《さわや》かさを感じ、又暫く戸口に立った。
 風は和《な》いだ。曇っては居るが月が上ったと見え、雲がほんのり白らんで、朧気《おぼろげ》に庭の様子が判る。狭い庭で軒に迫る木立の匂い、苔《こけ》の匂い、予は現実を忘るるばかりに、よくは見えない庭を見るとはなしに見入った。
 北海の波の音、絶えず物の崩るる様な響、遠く家を離れてるという感情が突如として胸に湧《わ》く。母屋の方では咳《せき》一つするものもない。世間一体も寂然と眠に入った。予は何分寝ようという気にならない。空腹なる人の未だ食事をとり得ない時の如く、痛く物足らぬ心の弱りに落ちつくことが出来ぬのである。
 元気のない哀れな車夫が思い出される。此家の門を潜り入った時の寂しさが思い出される。それから予に不満を与えた岡村の仕振りが、一々胸に呼び返される。
 お繁さんはどうしたかしら、どうも今居ないらしい。岡村は妹の事に就て未だ何事もおれには語らない。お繁さんは無事でしょうなと、聞きたくてならないのを遂に聞かずに居った予は、一人考えに耽《ふけ》って愈《いよいよ》其物足らぬ思いに堪えない。
 新潟を出る時、僅かな事で二時間汽車の乗後れをしてから、柏崎へ降りても只淋しい思いにのみ襲われ、そうして此家に著いてからも、一として心の満足を得たことはない。其多くの不満足の中に、最も大なる不満足は、此家にお繁さんの声を聞かなかった事である。あアそうだ外の事は一切不満足でも、只同情ある殊に予を解してくれたお繁さんに逢えたら、こんな気苦しい厭な思いに悶々《もんもん》しやしないに極《きま》ってる。いやたとえ一晩でも宿《と》めて貰って、腹の中とは云え悪くいうは気が咎《とが》める、もうつまらん事は考えぬ事と戸を締めた。
 洋燈を片寄せようとして、不図《ふと》床を見ると紙本半切《しほんはんせつ》の水墨山水、高久靄※[#「※」は「涯−さんずい」、第3水準1−14−82、82−15]《たかくあいがい》で無論真筆紛れない。夜目ながら墨色深潤大いに気に入った。此気分のよいところで早速枕に就くこととする。
 強いて頭を空虚に、眼を閉じてもなかなか眠れない、地に響くような波の音が、物を
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング