子は泣いたかッ」
 と問うたら、長女の声でまだ泣かないと聞こえた。自分はその不安な一語を耳にはさんで、走りに走った。走れば十分とはかからぬ間なれど肥った自分には息切れがしてほとんどのめりそうである。ようやく家近く来ると梅子が走ってきた。自分はまた、
「奈々子は泣いたか」
「まだ泣かない、お父さんまだ医者も来ない」
 自分はあわてながらもむつかしいなと腹に思いつつなお一息と走った。
 わやわやと騒がしい家の中は薄暗い。妻は台所の土間《どま》に藁火《わらび》を焚《た》いて、裸体《らたい》の死児《しじ》をあたためようとしている。入口には二、三人近所の人もいたようなれどだれだかわからぬ。民子、秋子、雪子らの泣き声は耳にはいった。妻は自分を見るや泣き声を絞って、何だってもう浮いていたんですものどうしてえいやらわからないけれど、隣の人が藁火であたためなければっていうもんですから、これで生き返るでしょうか……。自分はすぐに奈々子を引き取った。引き取りながらも、医者は何といった。坂部《さかべ》はいたかといえば、坂部は家にいてすぐくるといいましたと返事したのはだれだかわからなかった。
 水にぬれた紙のごとく、とんと手ごたえがなく、頸《くび》も手も腰にも足にも、いささかだも力というものはない。父は冷えたわが子を素肌《すはだ》に押し当て、聞き覚えのおぼつかなき人工呼吸を必死と試みた。少しもしるしはない。見込みのあるものやら無いものやら、ただわくわくするのみである。こういううち、医者はどうして来ないかと叫ぶ。あおむけに寝かして心臓音を聞いてみた。素人《しろうと》ながらも、何ら生《せい》ある音を聞き得ない。水を吐《は》いたかと聞けば、吐かないという。しかし腹に水のあるようすもない。どうする詮《せん》も知らずに着物をあたためてはあてがい、あたためてはあてがってるのみ、家じゅう皆立って手にすることがなくうろうろしてる。妻は叫ぶ、坂部さんがいなければ木下《きのした》さんへゆけってこかねい。坂部さんはどうしたんだろうねい。坂部さんへまた見にゆきましたというものがあった。妻は上げた時すぐに奈あちゃんやって呼んだら、どうも返事をしたようであったがねい。返事ではなかったのかしら……。なんだって浮いていたのを見つけたんだもの、よもや池とは思わないから、いちばんあとで池を見たら浮いていたんですもの、という。
 それでも息を吹き返すこともやと思いながら、浮いておったということは、落ちてから時間のあることを意味するから、妻はしばしばそれを気にする。
「坂部さんが、坂部さんが」
 という声は、家じゅうに息を殺させた。それで医者ならば生き返らせることができるかとの一縷《いちる》の望みをかけて、いっせいに医者に思いをあつめた。自分はその時までも、肌に抱き締めあたためていた子どもを、始めて蒲団の上へはなした。冷然たる医者は一《いち》、二語《にご》簡単な挨拶をしながら診察にかかった。しかし診察は無造作であった。聴診器を三、四か所胸にあてがってみた後、瞳を見、眼瞼《まぶた》を見、それから形ばかりに人工呼吸を試み注射をした。肛門を見て、死後三十分くらいを経過しているという。この一語は診察の終わりであった。多くの姉妹らはいまさらのごとく声を立てて泣く、母は顔を死児に押し当ててうつぶしてしまった。池があぶないあぶないと思っていながら、何という不注意なことをしたんだろう。自分もいまさらのごとくわが不注意であったことが悔いられる。医師はそのうち帰ってしまわれた。
 近所の人々が来てくれる。親類の者も寄ってくる。来る人ごとに同じように顛末《てんまつ》を問われる。妻は人のたずねに答えないのも苦しく、答えるのはなおさら苦しい。もちろん問う人も義理で問うのであるから深くは問いもせぬけれど、妻はたまらなくなって、
「今夜わたしはあなたとふたりきりでこの子の番をしたい」
 といいだす。自分はそうもいくまいがとにかくここへは置けない。奥へ床を移さねばならぬといって、奥の床の前へ席を替えさした。枕上《まくらがみ》に経机《きょうづくえ》を据え、線香を立てた。奈々子は死に顔美しく真に眠ってるようである。線香を立てて死人扱いをするのがかあいそうでならないけれど、線香を立てないのも無情のように思われて、線香は立てた。それでも燈明《とうみょう》を上げたらという親戚の助言は聞かなかった。まだこの世の人でないとはどうしても思われないから、燈明を上げるだけは今夜の十二時過ぎからにしてといった。
 親戚の妻女《さいじょ》だれかれも通夜《つや》に来てくれた。平生《へいぜい》愛想笑いをする癖が、悔やみ言葉の間に出るのをしいてかみ殺すのが苦しそうであった。近所の者のこの際の無駄話は実にいやであった。寄ってくれた人たちは当然のこととして
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