其外亡き人の物らしいもの何一つ見當らない。茲に浮いて居たと云ふあたりは、水草の藻が少しく亂れて居る許り、只一つ動かぬ靜かな濁水を提灯の明りに見れば、只曇つて鈍い水の光り、何の罪を犯した色とも思へない。茲からと思はれたあたりに、足跡でもあるかと見たが、下駄の跡も素足の跡も見當らない。下駄のない處を見ると素足で來たに違ひない。どうして素足で茲へ來たか、平生用心深い兒で、縁側から一度落ちたことも無かつたのだから、池の水が少し下つて低かつたら、落込むやうな事も無かつたらうにと悔まれる。梅子も民子も只見廻しては綴泣きする。沈默した三人は暫く恨めしき池を見やつて立つてた。空は曇つて風も無い。奧の間でお通夜してくれる人達の話聲が細々と漏れる。
『いつまで見て居ても同じだから、もう上がらうよ。
と云つて先に立つと、提灯を動かした拍子に軒下に或物を認めた。自分は直ぐそれと氣づいて見ると、果して亡き人の着てゐた着物であつた。ぐつしやり一まとめに土塊のやうに置いてあつた。
『これが奈々ちやんの着物だね。
『あア。
二人は力ない聲で答へた。絣の單物に、メレンスの赤縞の西洋前掛である。自分はこれを見て、又強く亡き人の俤を思ひ出さずに居られなかつた。
くり/\としたつむり、赤い縞の西洋前掛を掛け、仰向いて池に浮いてゐたか、それを目つけた彼れの母の、其驚き、其周章、悲しい聲を絞つて人を呼びながら引上げた有樣、多くの姉妹等が泣き叫んで走り廻つたさまが、まざ/\と目に見るやうに思ひ出される。
三人が上つてきて、又一しきり親子姉妹が云つて甲斐ないはかな言を繰返した。
十二時が過ぎたと云ふので、經机に燈明を上げた。線香も盛にともされる。自分はまだどうしても此の世の人でないとは思はれない。幾度見ても寢顏は穩かに靜かで、死といふ色ざしは少しもない。妻は相變らず亡き人の足のあたりへ顏を添へて打伏してゐる。さうしてまた屡※[#二の字点、面区点番号1−2−22、48−4]起きては我が兒の顏を見守るのであつた。お通夜の人々は自分の仕振りに困じ果てゝか、慰めの詞も云はず、聊か離れた話を話し合うてる。夜は二時となり、三時となり、靜かな空氣は總てを支配した。自分は其間に一人拔け出でゝは、二度も三度も池の周りを見に行つた。池の端に立つては、亡き人の今朝からの俤を繰返し繰返し思ひ浮べて泣いた。
おつちやんにあつこ、
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