養われたる民族が、遂に世界に優越せるも決して偶然でないように思われる、欧洲の今日あるはと云わば、人は必ず政体を云々し宗教を云々し学問を云々す、然れども思うに是根本問題にはあらず、家庭的美風は[#「家庭的美風は」に傍点]、人というものの肉体上精神上[#「人というものの肉体上精神上」に傍点]、実に根本問題を解決するの力がある[#「実に根本問題を解決するの力がある」に傍点]、其美風を有せる歌人にあっては、此研究や自覚は遠き昔に於て結了せられたであろう、多くの人は晩食に臨で必ず容儀を整え女子の如きは服装を替えて化粧をなす等形式六つかしきを見て、単に面倒なる風習事々しき形式と考え、是を軽視するの趣あれど、そは思わざるも甚しと云わねばならぬ、斯く式広を確立したればこそ、力ある美風も成立って、家庭を統一し進んで社会を支配することも出来たのである、娯楽本能主義で礼儀の精神がなければ必ず散漫に流れて日常の作法とはならぬ[#「娯楽本能主義で礼儀の精神がなければ必ず散漫に流れて日常の作法とはならぬ」に傍点]、是に反し礼儀を本能とした娯楽の趣味が少ければ[#「是に反し礼儀を本能とした娯楽の趣味が少ければ」に傍点]、必ず人を飽かしめて永続せぬ[#「必ず人を飽かしめて永続せぬ」に傍点]、礼儀と娯楽と調和宜しきを得る処に美風の性命が存するのである[#「礼儀と娯楽と調和宜しきを得る処に美風の性命が存するのである」に傍点]、此精神が茶の湯と殆ど一致して居るのであるが、彼欧人等がそれを日常事として居るは何とも羨しい次第である、彼等が自ら優等民族と称するも決して誇言ではない、
兎角精神偏重の風ある東洋人は、古来食事の問題などは甚だ軽視して居った、食事と家庭問題食事と社会問題等に就て何等の研究もない、寧ろ食事を談ずるなどは、士君子の恥ずる処であった、(勿論茶の湯の事は別であれど)恐らくは今日でも大問題になって居るまい[#「恐らくは今日でも大問題になって居るまい」に傍点]、世人は食事の問題と云えば衛生上の事にあらざれば、美食の娯楽を満足せしむる目的に過ぎないように思うて居る、近頃は食事の問題も頗る旺であって、家庭料理と云い食道楽と云い、随分流行を極めているらしいが、予は決してそれを悪いとは云わねど、此の如き事に熱心なる人々に、今一歩考を進められたき希望に堪えないのである、
単に美食の娯楽を満足せしむることに傾いては、家庭問題社会問題との交渉がない訳になる、勿論弦斎などの食道楽というふうには衛生問題もあり経済問題もあるらしいが、予の希望は、今少しく高き精神を以て研究せられたく思うのである[#「今少しく高き精神を以て研究せられたく思うのである」に傍点]、美食は美食其物に趣味も利益もあるは勿議であれど、食事の問題が只美食の娯楽を本能とするならば[#「食事の問題が只美食の娯楽を本能とするならば」に傍点]、到底浅薄な問題で士君子の議すべき問題ではない[#「到底浅薄な問題で士君子の議すべき問題ではない」に傍点]。
予の屡繰返す如く、欧人の晩食の風習や日本の茶の湯は美食が唯一の目的ではないは誰れも承知して居よう、人間動作の趣味や案内の装飾器物の配列や、応対話談の興味や、薫香の趣味声音の趣味相俟って、品格ある娯楽の間自然的に偉大な感化を得るのであろう加うるに信仰の力と習慣の力と之を助けて居るから、益々人を養成するの機関となるのである、
欧風の晩食と日本の茶の湯と、全然同じでないは云うまでもないが、頗る類似の点が多いと聞いて、仮りに対照して云うたまでなれど、彼の特美は家庭的日常時な点にある、茶の湯の特長は純詩的な点にある、趣味の点より見れば茶の湯は実に高いものである、家庭問題社会問題より見れば欧人の晩食人事は実に美風である、今日の茶の湯というもの固より其弊に堪えないは勿論なれど何事にも必ず弊はあるもの、暫く其弊を言わずして可。一面には純詩的な茶の湯も勿論可なれど、又一面には欧風晩食の如く、日常の人事に茶の湯の精神を加味し、如何なる階級の人にも如何なる程度の人にも其興味と感化とを頒ちたいものである、
古への茶の湯は今日の如く、人事の特別なものではない、世人の思う如く苦度々々しきものではない、変手古なものではない、又軽薄極まる形式を主としたものではない、形の通りの道具がなければ出来ないというものでもない、利休は法あるも茶にあらず[#「法あるも茶にあらず」に傍点]法なきも茶にあらずと云ってある位である、されば聊かの用意だにあれば、日常の食事を茶の湯式にすることは雑作もないことである、只今日の日本家庭の如く食室がなくては困る、台所以外食堂というも仰山なれど、特に会食の為に作れる食堂だけは、どうしても各戸に設ける風習を起したい、それさえ出来れば跡は訳もないことである、其装飾や設備やは各分に応じて作れば却て面白いのであろう、それは四畳半の真似などをしてはいかぬ、只何時他人を迎えても礼儀と趣味とを保ち得るだけでよい[#「只何時他人を迎えても礼儀と趣味とを保ち得るだけでよい」に傍点]、此の如き風習一度立たば、些末の形式などは自然に出来てくる一貫せる理想に依て家庭を整へ家庭を楽むは所有人事の根柢であるというに何人も異存はあるまい、食事という天則的な人事を利用してそれに礼儀と興味との調和を得せしむるという事が家庭を整へ家庭を楽むに最も適切なる良法であることは是又何人も異存はあるまい、人或はそんなことをせなくとも、家庭を整え家庭を楽むことが出来ると云はば、予はそれに反対せぬ別に良法があればそれもよろしいからである、併し予は決して他に良法のあるべきを信じない。

    三

予はこう思ったことがある、茶人は愚人だ、其証拠には素人にロクな著述がない、茶人の作った書物に殆ど見るべきものがない、殊に名のある茶人には著書というもの一冊もない、であるから茶人というものは愚人である、茶は面白いが茶人は駄目である、利休や宗旦は別であるが、外の茶人に物の解った人はない様じゃ、こう一筋に考えたものであったが、今思うとそれは予の考違であった、茶の湯は趣味の綜合から成立つ、活た詩的技芸であるから、其人を待って始めて、現わるるもので、記述も議論も出来ないのが当前である、茶の湯に用ゆる建築露路木石器具態度等総てそれ自身の総てが趣味である、配合調和変化等悉く趣味の活動である、趣味というものの解釈説明が出来ない様に茶の湯は決して説明の出来ぬものである、香をたくというても香のかおりが文字の上に顕われない様な訳である、若し記述して面白い様な茶であったら、それはつまらぬこじつけ理窟か、駄洒落に極って居る、天候の変化や朝夕の人の心にふさわしき器物の取なしや配合調和の間に新意をまじえ、古書を賞し古墨跡を味い、主客の対話起座の態度等一に快適を旨とするのである、目に偏せず、口に偏せず、耳に偏せず、濃淡宜しきを計り、集散度に適す、極めて複雑の趣味を綜合して、極めて淡泊な雅会に遊ぶが茶の湯の精神である、茶の湯は人に見せるの人に聴せるのという技芸ではなく、主人それ自身客それ自身が趣味の一部分となるのである、
何から何まで悉く趣味の感じで満たされて居るから、塵一つにも眼がとまる、一つ落着が悪くとも気になる、庭の石に土がついたまで捨てて置けないという、心の状態になるのである、趣味を感ずる神経が非常に過敏になる、従て一動一作にも趣味を感じ、庭の掃除は勿論、手鉢の水を汲み替うるにも強烈に清新を感ずるのである、客を迎えては談話の興を思い客去っては幽寂を新にする、秋の夜などになると興味に刺激せられて容易に寐ることが出来ない、故に茶趣味あるものに体屈ということはない、極めて細微の事柄にも趣味の刺激を受くるのであるから、内心当に活動して居る、漫然昼寝するなどということは、茶趣味の人に断じてないのである、茶の湯を単に静閑なる趣味と思うなどは、殆ど茶趣味に盲目なる人のことである、されば茶人には閑という事がなく、理窟を考えたり書物を見たり、空想に耽ったりする様な事は殆どない、それであるから著述などの出来る訳がない、物知りなどには到底なれないのが、茶人の本来である、されば著書などあるものであったらそれは必ず商買茶人俗茶人の素人おどしと見て差支ない、原来趣味多き人には著述などないが当前であるかも知れぬ、芭蕉蕪村などあれだけの人でも殆ど著述がない、書物など書いた人は、如何にも物の解った様に、うまいことをいうて居るが、其実趣味に疎いが常である、学者に物の解った人のないのも同じ訳である、太宰春台などの馬鹿加減は殆どお話にならんでないか。



底本:「日本の名随筆24 茶」作品社
   1984(昭和59)年10月25日第1刷発行
   1986(昭和61)年2月20日第3刷発行
底本の親本:「左千夫全集 第六巻」岩波書店
   1977(昭和52)年5月
初出:「茶の湯の手帳」
   1906(明治39)年
※「欧州」と「欧洲」の混在は底本通りです。
入力:よしだひとみ
校正:土屋隆
2007年7月25日作成
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