まったら、これに上越す幸福はないであろう。
 真《しん》にそれに相違ない。このまま苦もなく死ぬことができれば満足であるけれど、神様がわれわれにそういう幸福を許してくれないかも知れない、と自分もしんから嘆息したのであった。
 当時はただ一場の癡話として夢のごとき記憶に残ったのであるけれど、二十年後の今日それを極めて真面目《まじめ》に思い出したのはいかなる訳か。
 考えて見ると果してその夜のごとき感情を繰返した事は無かった。年一年と苦労が多く、子供は続々とできてくる。年中あくせくとして歳月の廻るに支配されている外に何らの能事《のうじ》も無い。次々と来る小災害のふせぎ、人を弔《とぶら》い己れを悲しむ消極的|営《いとな》みは年として絶ゆることは無い。水害又水害。そうして遂に今度の大水害にこうして苦闘している。
 二人が相擁《あいよう》して死を語った以後二十年、実に何の意義も無いではないか。苦しむのが人生であるとは、どんな哲学宗教にもいうてはなかろう。しかも実際の人生は苦しんでるのが常であるとはいかなる訳か。
 五十に近い身で、少年少女|一夕《いっせき》の癡談を真面目に回顧している今の境遇で、こ
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