れない。仕方がないから、佐倉《さくら》へ降りる。
奥深い旅宿の一室を借りて三人は次ぎの発車まで休息することにした。おはまは二人の前にひれふしてひたすらに詫《わ》びる。
「わたしはこんなことをするつもりではなかったのであります、思わず識《し》らずこんな不束《ふつつか》なまねをして、まことに申しわけがありません。おとよさんどうぞ気を悪くしないでください」
というのである、おはまは十三の春から省作の家にいて、足掛け四年間のなじみ、朝夕隔てなく無邪気に暮して来たのである。おはまは及ばぬ事と思いつつも、いつとなし自分でも判《わか》らぬまに、省作を思うようになった。しかしながら自分の姉ともかしずくおとよという人のある省作に対し、決してとりとめた考えがあったわけではない。ただ急に別れるが悲しさに、われ識《し》らずこの不束を演じたのだ。
もとから気の優しい省作は、おはまの心根を察してやれば不愍で不愍で堪《たま》らない。さりとておとよにあられもない疑いをかけられるも苦しいから、
「おとよさん決して疑ってくれな、おはまには神かけて罪はないです。こんなつまらん事をしてくれたものの、なんだか私はかわいそうでならない。私のいないあとでも決して気を悪くせず、おはまにはこれまでのとおり目をかけてやってください」
おとよはもうおはまを抱いて泣いてる。わが玉の緒の断えんばかり悲しい時に命の杖《つえ》とすがった事のあるおはまである。ほかの事ならばわが身の一部をさいても慰めてやらねばならないおはまだ。
おはまの悲しみのゆえんを知ったおとよの悲しみは小説書くものの筆にも書いてみようがない。
三人は再び汽車に乗る、省作は何かおはまにやりたいと思いついた。
「おとよさん、私は何かはまにやりたいが、何がよかろう」
「そうですねい……そうそう時計をおやんなさい」
「なるほど私は東京へゆけば時計はいらない、これは小形だから女の持つにもえい」
駅夫が千葉千葉と呼ぶ。二人は今さらにうろたえる。省作はきっとなって、
「二人はここで降りるんだ」
底本:「野菊の墓」集英社文庫、集英社
1991(平成3)年6月25日第1刷
2007(平成19)年3月25日第4刷
初出:「ホトトギス」
1908(明治41)年4月号
入力:林 幸雄
校正:川山隆
ファイル作成:
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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