べきを、春愁堪え難き身のおとよは、とても春光を楽しむの人ではない。
男子家にあるもの少なく、婦女は養蚕の用意に忙しい。おとよは今日の長閑《のどか》さに蚕籠《こかご》を洗うべく、かつて省作を迎えた枝折戸《しおりど》の外に出ているのである。抑え難き憂愁を包む身の、洗う蚕籠には念も入らず、幾度も立っては田圃の遠くを眺めるのである。ここから南の方へ十町ばかり、広い田圃の中に小島のような森がある、そこが省作の村である。木立《こだち》の隙間から倉の白壁がちらちら見える、それが省作の家である。
おとよは今さらのごとく省作が恋しく、紅涙|頬《ほお》に伝わるのを覚えない。
「省さんはどうしているかしら、手紙のやりとりばかりで心細くてしようがない。こうしてお家も見えているのに、兄さんは、二人一緒になると決心しろって、今でもそう思ってて下さるのかしら」
おとよは口の底でこういって省作の家を見てるのである。縁談の事もいよいよ事実になって来たらしいので、おとよは俄《にわ》かに省作に逢《あ》いたくなった。逢って今さら相談する必要はないけれど、苦しい胸を話したいのだ。十時も過ぎたと思うに蚕籠《こかご》はまだいくつも洗わない。おとよは思い出したように洗い始める。格好のよい肩に何かしらぬ海老色《えびいろ》の襷《たすき》をかけ、白地の手拭《てぬぐい》を日よけにかぶった、顋《あご》のあたりの美しさ。美しい人の憂えてる顔はかわいそうでたまらないものである。
「おとよさんおとよさん」
呼ぶのは嫂《あによめ》お千代だ。おとよは返辞をしない。しないのではない、できないのだ。何の用で呼ぶかという事は解《わか》ってるからである。
「おとよさん、おとッつさんが呼んでいますよ」
枝折戸《しおりど》の近くまで来てお千代は呼ぶ。
「ハイ」
おとよは押し出したような声でようやくのこと返辞をした。十日ばかり以前から今日あることは判《わか》っているから充分の覚悟はしているものの、今さらに腹の煮え切る思いがする。
「さあおとよさん、一緒にゆきましょう」
お千代は枝折戸の外まできて、
「まあえい天気なこと」
お千代は気楽に田圃《たんぼ》を眺めて、ただならぬおとよの顔には気がつかない。おとよは余儀なく襷をはずし手拭を採《と》って二人一緒に座敷へ上がる。待ちかねていた父は、ひとりで元気よくにこにこしながら、
「おとよここへきてくれ、おとよ」
「ハア」
おとよは平生《へいぜい》でも両親に叮嚀《ていねい》な人だ、ことに今日は話が話と思うものから一層改まって、畳二畳半ばかり隔てて父の前に座した。紫檀《したん》の盆に九谷《くたに》の茶器|根来《ねごろ》の菓子器、念入りの客なことは聞かなくとも解る。母も座におって茶を入れ直している。おとよは少し俯向《うつむ》きになって膝《ひざ》の上の手を見詰めている。平生顔の色など変える人ではないけれど、今日はさすがに包みかねて、顔に血の気《け》が失せほとんど白蝋《はくろう》のごとき色になった。
自分ひとりで勝手な考えばかりしてる父はおとよの顔色などに気はつかぬ、さすがに母は見咎《みとが》めた。
「おとよ、お前どうかしたのかい、たいへん顔色が悪い」
「ええどうもしやしません」
「そうかい、そんならえいけど」
母は入れた茶を夫のと娘のと自分のと三つの茶碗《ちゃわん》についで配り、座についてその話を聞こうとしている。
「おとよ、ほかの事ではないがの、お前の縁談の事についてはずれの旦那《だんな》が来てくれて今帰られたところだ。お前も知ってるだろう、早船の斎藤《さいとう》よ、あの人にはお前も一度ぐらい逢った事があろう、お互いに何もかも知れきってる間だから、誠《まこと》に苦《く》なしだ。この月初めから話があっての、向うで言うにゃの、おとよさんの事はよく知ってる、ただおとよさんが得心《とくしん》して来てくれさえすれば、来た日からでも身上《しんしょう》の賄《まかな》いもしてもらいたいっての、それは執心な懇望よ、向うは三度目だけれどお前も二度目だからそりゃ仕方がない。三度目でも子供がないから初縁も同じだ。一度あんな所へやってお前にも気の毒であったから、今度は判《わか》ってるが念のために一応調べた。負債などは少しもない、地所はうちの倍ある。一度は村長までした人だし、まあお前の婿にして申し分のないつもりじゃ。お前はあそこへゆけばこの上ない仕合せとおれは思うのだ。それでもう家じゅう異存はなし、今はお前の挨拶《あいさつ》一つできまるのだ。はずれの旦那はもうちゃんときまったようなつもりで帰られた。おとよ、よもやお前に異存はあるまいの」
おとよは人形のようになってだまってる。
「おとよ、異存はねいだの。なに結構至極《けっこうしごく》な所だからきめてしまってもよいと思ったけど、お
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