に自分に摺寄った。お松の母も頻りに「こんな汚ない家だけれど決して寒い思いはさせないから」と母に言ってる。母は自分の顔をのぞいて「泊れるかい」と云う。
「ねえやのとこへ泊れる」
自分がそういうと「さア極《きま》った」と云ってお松は喜んだ。そうしてお松は自分の膝の上へ抱上げて終った。
「おまえ泊れるかい」
母は猶念を押して「おまえが泊ると極ればお母さんは出かける、えいだっペねい」と云った。
「お母さんは行ってもえい」
自分がそういうと、母はいろいろ頼むと云う様な事を云って立ちかける。する処へ赤い顔の背の高い五十|許《ばか》りの爺が庭から、さげた手を振りつつ這入って来た。何かよく解らなかったけれど、今夜是非お松を頼みたいと云うような事を、勝手にしゃべって出て行った。お松が家の本家のあるじだという事であった。
「困ったなア困ったなア」
お松はくりかえしくりかえし云って溜息《ためいき》をついた。結局よんどころないと云う事で、自分は母と一緒に出掛けることになった。お松は「仕様がないねえ坊さん」と云って涙ぐんだ。「又寄ってください」と云うのもはっきりとは云えなかった。そうして自分を村境までおぶって送ってくれた。自分も其時悲しかったことと、お松が寂しい顔をうなだれて、泣き泣き自分を村境まで送ってきた事が忘れられなかった。
「さアここでえいからお松おまえ帰ってくれ」
と母が云っても、お松はなかなか自分を背から降ろさないで、どこまでもおぶって来る。もうどうしてもここでとおもう処で、自分をおろしたお松は、もうこらえかねて「坊さんわたしがきっと逢いにゆくからね」と自分の肩へ顔をあてて泣いた。自分もお松へ取りついて泣いた。母は懐から何か出してお松にやった。お松は頻りに辞退したのを、母は無理にお松にやって、自分をおぶった。お松はそれでも暫くそこに立っていたようであった。
それきり妙に行違って、自分はお松に逢わなかった。それでも色のさえない元気のない面長なお松の顔は深く自分の頭に刻まれた。
七八年過ぎてから人の話に聞けば、お松は浜の船方の妻になったが、夫が酒呑で乱暴で、お松はその為《ため》に憂鬱性の狂いになって間もなく死んだという事であった。
[#地から2字上げ](明治四十五年二月)
底本:「野菊の墓」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年10月25日発行
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