父は羽織《はおり》だけはどうにかくふうしてふたり行ったらよかろうという。父は子どもたちの前にもいくぶんのみえ心がある。そればかりでなく、いつとてこれという満足を与えたこともないのだから、この場合とてもそんなことがと心いながらも頭からいけないというのは、どうしてもいえないでそういったのだ。
 母なるものには、もとより心にないことはいえない。そうかといって、てんからいけないとはかわいそうで言えないから、口出しができないでいる。
「そんならわたいの羽織を着て行けばえいわ」と、長女がいいだした。梅子は、
「人の着物借りてまでも行きたかない。わたい」
「そんなら着物を持ってる蒼生子《たみこ》がひとり行くことにしておくか」
 両親の胸を痛めたほど、子どもたちには不平がないらしく話は段落がついた。あとはひとしきり有名な琴曲家の噂《うわさ》話になった。僕は朝からの胸の不安をまぎらわしたいままに、つとめて子どもたちの話に興をつけて話した。けれども僕の気分も妻の顔色も晴れるまでにいたらなかった。
 若衆は牛舎の仕事を終わって朝飯《あさめし》にはいってくる。来《く》る来《く》る当歳の牝《め》牛が一頭ねたきり、どうしても起きないから見て下さいというのであった。僕はまた胸を針で刺されるような思いがした。
 二度あることは三度ある。どうも不思議だ、こればかりは不思議だ。僕はひとり言《ごち》ながらさっそく牛舎に行ってみた。熱もあるようだ。臀部《でんぶ》に戦慄《ふるえ》を感じ、毛色がはなはだしく衰え、目が闇涙《あんるい》を帯《お》んでる。僕は一見して見込みがないと思った。
 とにかくさっそく獣医に見せたけれど、獣医の診断も曖昧《あいまい》であった。三日目にはいけなかった。間《ま》の悪いことはかならず一度ではすまない。翌月牝子牛を一頭落とし、翌々月また牝牛を一頭落とした。不景気で相当に苦しめられてるところへこの打撃は、病身のからだに負傷したようなものであった。
 三頭目の斃《へい》牛を化製所の人夫に渡してしまってから、妻は不安にたえない面持《おもも》ちで、
「こう間《ま》の悪いことばかり続くというのはどういうもんでしょう。そういうとあなたはすぐ笑ってしまいますけど、家の方角《ほうがく》でも悪いのじゃないでしょうか」
「そんなことがあるもんか、間のよい時と間の悪い時はどこの家にもあることだ」
 こういって僕はさすがに方角を見てもらう気も起こらなかったが、こういう不運な年にはまたどんな良くないことがこようもしれぬという恐怖心はひそかに禁じ得なかった。

        四

 五月の末にだれひとり待つ者もないのにやすやすと赤子《あかご》は生まれた。
「どうせ女でしょうよ」
 妻はやけにそういえば、産婆は声静かに笑いながら、
「えィお嬢さまでいらっしゃいますよ」
 生まれる運をもって生まれて来たのだ。七女であろうが八女であろうが、私にどうすることもできない。産婆はていちょうに産婆のなすべきことをして帰った。赤子はひとしきり遠慮会釈《えんりょえしゃく》もなく泣いてから、仏のような顔して眠っている。姉々にすぐれて顔立ちが良い。
「大事にされる所へ生まれて来やがればよいのに」
 妻はそういう下から、手を伸べて顔へかかった赤子の着物をなおしてやる。このやっかい者めがという父の言葉には、もう親のいとしみをこめた情がひびいた。口々に邪慳《じゃけん》に言われても、手ですることには何の疎略《そりゃく》はなかった。
「今に見ろ、このやっかい者に親も姉妹《きょうだい》も使い回されるのだ」
「それだから、なおやっかい者でさあね」
 毎日洗われるたびに、きれいな子だきれいな子だといわれてる。やっかいに思われるのも日一日と消えて行く。
 電光石火……そういう間にも魔の神にのろわれておったものか、八女の出産届をした日に三ツになる七女は池へ落ちて死んだ。このことは当時お知らせしたことで、僕も書くにたえないから書かない。僕ら夫妻は自分らの命を忘れて、かりそめにもわが子をやっかいに思うたことを深く悔い泣いた。
 多いが上にまた子どもができるといっては、吐息《といき》を突いて嘆息したものが、今は子どもに死なれて、生命もそこなうばかりに泣いた。
 矛盾撞着《むじゅんどうちゃく》……信仰のない生活は、いかりを持たない船にひとしく、永遠に安住のないことを深刻に恥じた。

        五

 七月となり、八月となり、牛乳の時期に向かって、不景気の荒波もようやく勢いを減じたが、幼女を失うた一家の痛みは、容易に癒《い》ゆる時はこない。夫妻は精神疲労して物に驚きやすく、夜寝てもしばしば眼をさますのである。
 おりから短夜の暁いまだ薄暗いのに、表の戸を急がしく打ちたたく者がある。近所にいる兄の妻が産後の急変で危篤
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