はもちろんであるけれど、その娯楽といい慰藉というのも、君などが満足の上に満足を得て娯楽とし慰藉とするものとは、すこぶる趣《おもむき》を異にしているであろう。人からはどうみえるか知らないが、今の僕には、何によらず道楽するほど精神に余裕がないのだ。
 数えくれば際限がない。境遇の差というものは実に恐ろしいものである。何から何までことごとくその心持ちが違っている。それであるから、とうてい互いにじゅうぶんあい解することはできないのである。それにもかかわらずなお君に訴えようとするのは、とにかく僕の訴えをまじめに聞いてくれる者は、やはり君をおいてほかにありそうもないからだ。

       二

 去年は不景気の声が、ずいぶん騒がしかった。君などの耳には聞こえたかどうか、よし響いたにしたところで、松原越しに遠浦の波の音を聞くくらいに聞いたであろう。府下の同業者なども、これまで幾度かあった不景気騒ぎには、さいわいにその荒波に触るるの厄《やく》をまぬがれてきたのだが、去年という大厄年の猛烈な不景気には、もはやその荒い波を浴びない者はなかった。
 売れがわるければ品物は残る。どの家にも物品が残ってるから価がさがる。こういうときに保存して置くことのできない品物、すなわち牛乳などはことに困難をする。何ほど安くても捨てるにはましだ。そこでだれもだれも安くても売ろうとする。乳価はいよいよさがらねばならない。いっぽうには品物を残し(棄《す》たるの意)、いっぽうには価がさがっている。収入は驚くほど減じてくる。動物を飼うてる営業であるから、収入は減じても、経費は減じない。その月の収入でその月の支払いがいつでも足りない。その足りない分はどうして補給するか。多少の貯蓄でもあればよいが、平生がすでにあぶなく舟をこいでいる僕らであると、どうしても資本を食うよりほかはないことになる。これを俗に食い込みというのだが、君たちにはわからない言葉であろう。
 君もおおよそは知ってるとおり、僕は営業の割合に家族が多い。畜牛の頭数《とうすう》に合わして人間の頭数《あたまかず》が多い。人間にしても働く人間よりは遊食が多い。いわば舟が小さくて荷物が容積の分量を越えているのだ。事のあったときのために平生余裕をつくる暇がないのだ。つねの時がすでに不安の状態にあるのだから、少し波風が荒いとなっては、その先どうなるのかほとんど見込
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