赤|白斑《まだら》の乳牛である。見ると少しく沈欝《ちんうつ》したようすはしているが、これが恐るべき牛疫とは素人目《しろうとめ》には教えられなければわからぬくらいである。その余の三十余頭、少しも平生に変わらず、おのおの争うて餌をすすっている。
「こうしているのをいま少しすぎにみな撲殺してしまうのかと思うと、損得に関係なく涙が出る」
 主人はいまさら胸のつかえたように打ち語るのであった。けさ分娩したのだという白牛は、白黒斑のきれいなわが子を、頭から背から口のあたりまで、しきりにねぶりまわしているなどは、いかにも哀れに思われた。牡牛のうめき声、子牛の鳴き声等あい混《こん》じてにぎやかである。いずれもいずれも最後の飼葉《かいば》としていま当てがわれた飼桶《かいおけ》をざらざらさも忙しそうに音をさせてねぶっている。主人は雇人《やといにん》に、
「これきりの飼葉だ、ねぶらせておけよ。桶も焼いてしまうのだ。かじってえい……」
 主人の声はのどにつまるように聞こえた。僕は慰めようもなく、ただおおいに放胆《ほうたん》なことをいうて主人を励ました。
 警視庁の獣医も来て評価人も規定どおり三人そろうたから、さっそくということで評価にかかった。一時四十分ばかりで評価がすむとまったく夜になった。警官連はひとりに一張《ひとはり》ずつことごとく提灯《ちょうちん》を持って立った。消毒の人夫は、飼料の残品から、その他牛舎にある器物のいっさいを運び出し、三カ所に分かって火をかけた。盛んに石油をそそいでかき立てる。一面にはその明りで屠殺にかかろうというのである。
 牧夫は酒を飲んだ勢いでなければ、とても手伝っていられないという。主人はやむを得ず酒はもちろん幾分の骨折りもやるということで、ようやく牧夫を得心さした。警官は夜がふけるから早く始めろとどなる。屠手《としゅ》は屠獣所から雇うてきたのである。撲殺には何の用意もいらない。屠手が小さな斧《おの》に似た鉄鎚《てっつい》をかまえて立っているところへ、牧夫が牛を引いて行くのである。[#「行くのである。」は底本では「行くのである。。」]
 最初に引き出したのは赤毛の肥《ふと》った牝牛《めうし》であった。相当の位置までくると、シャツにチョッキ姿の屠手は、きわめて熟練したもので、どすと音がしたかと思うと、牝牛は荒れるようすもなく、わずかに頭を振るかとみるまに両膝《
前へ 次へ
全18ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
伊藤 左千夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング