たりある人に会うた。胸部のあたりには、生《せい》の名残《なご》りの温気がまだ消えないらしい。
 平生赤みかかった艶《つや》のよい人であったが、全血液を失うてしもうたものか、蒼黄色に変じた顔は、ほとんどその人のようでなかった。嫂はもうとてもむつかしいと見えたとき、
「わたしもこれで死んでしまってはつまらない……」
 と、いったそうである。若くして死ぬ人の心は多くその一語に帰すのであろう。平凡な言葉にかえって無限の恨《うら》みがこもっている。きのうの日暮れまで働いていた人が、その夜の明け明けにもはや命が消える。多くの子どもや長年添うた夫を明るい世にのこし、両親が会いにくるにも間に合わないで永久の暗に沈まんとする、最後を嘆く暇《いとま》もない。
「これで死んでしまってはつまらない」
 もがく力も乏しい最後の哀音《あいおん》、聞いたほどの人の耳には生涯消えまじくしみとおった。自分は妻とともにひとまず家に帰って、ただわけもわからずため息をはくのであった。思わず妻の顔子どもたちの顔を見まわした。まさか不意にだれかが死ぬというようなことがありゃせまいなと思われたのである。
 その赤子がまもなくいけなかった。ついで甥《おい》の娘が死んだ、友人の某が死に某が死んだ。ついに去年下半年の間に七度葬式に列した僕はつくづく人生問題は死の問題だと考えた。生活の問題も死の問題だ。営業も不景気も死の問題だ。文芸もまた死の問題だ。そんなことを明け暮れ考えておった。そうして去年は暮れた。
 不幸ということがそう際限もなく続くものでもあるまい。年の暮れとともに段落になってくれればよいがと思っていると、息はく間もなく、かねて病んでおった田舎《いなか》の姉が、新年そうそうに上京した。それでこれもまもなく某病院で死んだ。姉は六十三、むつかしい病気であったから、とうから覚悟はしておった。
「欲にはいま三年ばかり生きられれば、都合がえいと思ってたが、あに今死んだっておれは残り惜しいことはない……」
 こう自分ではいったけれど、知覚精神を失った最後の数時間までも、薬餌《やくじ》をしたしんだ。匙《さじ》であてがう薬液を、よく唇《くちびる》に受けてじゅうぶんに引くのであった。人間は息のとまるまでは、生きようとする欲求は消えないものらしい。

        六

 いささか長いに閉口するだろうが、いま一節を君に告げたい
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