は、ほとんど狂《きょう》せんばかりに悲嘆したことを僕は知っている。それにもかかわらず一度異境に旅寝しては意外に平気で遊んでいる。さらばといって、君に熱烈なある野心があるとも思えない。ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居《かんきょ》するとか、朝鮮で農業をやろうとか、そういうところをみれば、君に妻子を忘れるほどのある熱心があるとはみえない。
こういうと君はまたきっと、「いやしくも男子たるものがそう妻子に恋々としていられるか」というだろう。そこだ、僕のわからぬというのは。境遇の差があまりにはなはだしいというのもそこだ。
僕の今を率直にいえば、妻子が生命の大部分だ。野心も功名もむしろ心外いっさいの欲望も生命がどうかこうかあってのうえという固定的感念に支配されているのだ。僕の生命からしばらくなりとも妻や子を剥《は》ぎ取っておくならば、僕はもう物の役に立たないものになるに違いないと思われるのだ。そりゃあまり平凡じゃと君はいうかもしれねど、実際そうなのだからしかたがない。年なお若い君が妻などに頓着《とんちゃく》なく、五十に近い僕が妻に執着するというのはよほどおかしい話である。しかしここがお互いに解しがたいことであるらしい。
貧乏人の子だくさんというようなことも、僕の今の心理状態と似よった理由で解釈されるのかもしれない。そうかといって、結婚二十年の古夫婦が、いまさら恋愛でもないじゃないか。人間の自然性だの性欲の満足だのとあまり流行臭い思想で浅薄《せんぱく》に解し去ってはいけない。
世に親というものがなくなったときに、われらを産んでわれらを育て、長年われらのために苦労してくれた親も、ついに死ぬ時がきて死んだ。われらはいま多くのわが子を育てるのに苦労してるが……と考えた時、世の中があまりありがたくなく思われだした。いままで知らなかったさびしさを深く脳裏に彫《ほ》りつけた。夫婦ふたりの手で七、八人の子どもをかかえ、僕が棹《さお》を取り妻が舵《かじ》を取るという小さな舟で世渡りをするのだ。これで妻子が生命の大部分といった言葉《ことば》の意味だけはわかるであろうが、かくのごとき境遇から起こってくるときどきのできごととその事実は、君のような大船に安乗して、どこを風が吹くかというふうでいらるる人のけっして想像し得ることではないのだ。
こころ満ちたる者は親しみがたしといえば、少し悪い
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