まっさきになって暴動を起こしたいのである、だがかれは校長の熱烈な演説と、そのいわんとしていわざる満腹の不平をしのんで、学生は学生らしくすべしという訓戒をたれた敬虔《けいけん》な態度を見ると、竹やりむしろ旗の暴動よりも、静粛の方がどれだけりっぱかしれないという溶々《ようよう》大海のごとき寛濶《かんかつ》な気持ちが全身にみなぎった。かれははじめて校長先生の偉大さがわかった。先生はなんの抵抗《ていこう》もせずにこの地方の教育界の将来のために喜んで十字架についたのである、先生は浦和の町人《まちびと》がかならずその不正不義を反省するときがくると自信しているのだ。
 小原はこういうことを柳に語った。
「ねえきみ、ぼくにはよく先生の気持ちがわかった、それはね、ぼくが捕手《キャッチャ》をやってるからだよ、捕手《キャッチャ》は決して自分だけのことを考えちゃいかんのだ、全体のことを……みんなのことを第一に考えなけりゃならない、ちょうど校長は捕手《キャッチャ》のようなものだからね」
「そうかね」
 柳はひどく感慨にうたれていった。そうして口の中で、「みんなのことみんなのこと」とくりかえした。
 ふたりは停車場へゆくとはや東から西から南から北から見送りの生徒が三々五々集まりつつあった。昨日《きのう》の申しあわせで生徒はことごとく和服で集まることになっていた、白がすりに小倉《こくら》のはかま、手ぬぐいを左の腰にさげて、ほおばのげたをがらがら引きずるさまがめずらしいので、町の人々はなにごとがはじまったかとあやしんだ。
 集まるものはことごとく少壮の士、ふきだしそうな血は全身におどっている、その欝勃《うつぼつ》たる客気はなにものかにふれると爆発する、しかも今や涙をもって慈父のごとく敬愛する校長とわかれんとするのである。危険は刻々にせまってくる。かれらはなにを見てもさわいだ。馬が荷車をひいて走ったといっては喝采し、おばあさんが転んだといっては喝采し、巡査が饅頭《まんじゅう》を食っているのを見ては喝采した。
 小原はきわめて手際《てぎわ》よくかれらを鎮撫《ちんぶ》した、かれは平素沈黙であるかわりにこういうときにはわれ鐘のような声で一同を制するのであった。野球試合のときどんな難戦におちいってもかれはマスクをぬぎ両手をあげて「しっかりやれよ」と叫ぶと、三軍の元気にわかに振粛《しんしゅく》するのであった。
 かれは一同を広場の片側に整列させた、何人《なんぴと》も彼の命にそむくものはなかった、がしかし人々の悲痛と憤怒《ふんぬ》はどうしてもおさえきることはできなかった。一年を制すれば二年が騒ぎだし、二年を制すればまた一年がくずれる、さすがに四年五年は粛然として涙をのんでいる。
 これらの動揺の波濤《はとう》の中をくぐりぬけて小原は東西にかけずりまわった、かれは帽子をぬいでそれを目標にふりふり叫んだ。その単衣《ひとえ》は汗にびしょぬれていた、かれはひたいから雨のごとく伝わり落ちる汗を手ぬぐいで拭《ふ》き拭きした。
 このさわぎのうちに人々は一層《いっそう》不安の念を起こしたのは三年生の全部が見えないことであった。
「三年がこない」
 口から口に伝わって人々はののしりたてた。
「三年のやつは不埓《ふらち》だ」
 だがこのののしりはすぐ一種の反撥的《はんぱつてき》な喝采とかわった。
「三年は全部結束してつぎの駅の蕨《わらび》で校長を見送るらしい」
「いや赤羽《あかばね》まで校長と同車する計画だ」
 この報知はたしかに人々の胸をうった、とまた飛報がきた。
「カトレット先生が辞表をだしたそうだ、漢文の先生は校長を見送ってから辞職するそうだ」
 このうわさはますます一同の神経をいらだたせた。
「学校を焼いてしまえ」
 だれいうとなくこの声が非常な力をもって伝播《でんぱ》した。
「しずかにしたまえ、諸君、決して軽々しいことをしてくれるな」
 小原は血眼になって叫《さけ》びまわった、とこのとき三年生は調神社《つきのみやじんじゃ》に集まって何事かを計画しているといううわさがたった。
「いってみる」と小原はいった。「柳君、しばらくたのむぜ」
 かれはげたをぬぎすててはだしになった、そうしてはかまを高くかかげて走りだした。
 この熱烈な小原の誠意に何人《なんぴと》も感歎せぬものはなかった。
「おれもゆく」
「おれも……」
 後藤という投手と浜井という三塁手はすぐにつづいた。
「学校の体面を思えばこそ小原も浜井も後藤もあのとおりに奔走してるんだ、諸君はどう思うか」
 柳がこういったとき一同は沈黙した。
「ああありがたいものは先輩だ」と柳はつくづく感じた。
 ものの二十分とたたぬうちに町のあなたにさっと土ほこりがたった。大通りの曲がり角から三年生の一隊があらわれた、かれらはちょうど送葬の人のごとくうちしおれてだまっていた、そのまっさきに木俣ライオンが長い旗ざおをになっていた、旗には「浦和に正義なし」と大書せるものがあったが、小原の強硬《きょうこう》な忠告によってそれをまくことにした、かれらはいずれもいずれも暗涙にむせんで歯をくいしばっていた。
「たのむぞ木俣、なあおい」
 小原はライオンの肩をたたいてしきりになだめると、木俣はもうねこのごとく柔順になって、おわりにはひとり群をはなれて人陰でないていた。
 純粋|無垢《むく》な鏡のごとき青年、澄徹《ちょうてつ》清水《しみず》のごとき学生! それは神武以来任侠の熱血をもって名ある関東男児のとうとき伝統である。この伝統を無視して正義を迫害した政党者流に対する公憤は神のごとき学生の胸に勃発《ぼっぱつ》した。
 かかるさわぎがあろうとは夢にも思わなかった久保井校長は、五人の子と夫人と、女中とそれから八十にあまるひとりの老母と共にあらわれた。
「やあ、これは……」
 かれは両側に整列した生徒を見やって立ちどまった。生徒はひとりとして顔をあげ得なかった、水々とした黒い頭、生気のみなぎる首筋《くびすじ》が、糸を引いたようにまっすぐにならぶ、そのわかやかな胸には万斛《ばんこく》の血が高波をおどらしている。
 校長はほっ[#「ほっ」に傍点]として立ちどまったまま動かない。かれはなにかいおうとしたが涙がのどにつまっていえなかった。かれは全校生徒がかくまで自分を慕《した》ってくれるとは思わなかった。
 生徒はやはりなんにもいわなかった。かれらはこの厳粛な刹那《せつな》において、校長と自分の霊魂がふれあったような気がした。
「ありがとう、どうもありがとう」
 校長の口からこういう低い声がもれた。実際校長の心持ちは千万言を費やすよりもありがとうの一語につきているのであった、かれはいま九百の青少年から人間としてもっとも美しい精霊を感受することができたのであった。
 かれはこういってから老母の手をとってなにやらささやいた。老母は雪のような白髪頭《しらがあたま》をまっすぐに起こして一同を見まわした、その気高くきざんだ顔のしわじわが波のようにふるえると、あわててハンケチをふところからだして顔にあてた。
 こらえこらえた悲しみは大河の決するごとく場内にあふれだした。ライオンはおどりでて叫んだ。
「やれッ」
 一同は校歌をうたいだした。
 いつ先生が汽車に乗ったか、乗ったときにどんな風であったか、それをつまびらかに知ってるものはなかった、一同がプラットホームへ流れでたときにはや汽車が動きだした。
「久保井先生万歳」
 熱狂の声が怒濤《どとう》のごとく起こった。
 窓から半身をだした校長の顔はわかやかに輝いた。かれは両手を高くあげて声のあらんかぎりに叫んだ。
「浦和中学バンザアイ」
「久保井先生バンザアイ」
 もう汽車は見えなくなった、生徒はぞろりぞろりと力なく停車場をでた。
 ちょうど汽車が動きだしたとき、ひとりの少年が大急ぎでやってきた、改札口が閉鎖されたのでかれはさくを乗り越えようとした。
「いけません」
 駅員はかれをつきとばした。かれはよろよろと倒れそうになって泳ぐように五、六歩しざった、そうしてやっと壁に身体《からだ》をもたらして呼吸《いき》をきらしながらだまった、その片手は繃帯《ほうたい》にまかれて首からつられてある。彼の胸があらわになったときその胸元もまた繃帯されてあるのが見えた。
 かれはだまって便所と倉庫らしい建物のあいだへでた、そこには焼きくいの柵《さく》が結われてある、かれはそこに立って片ひじを柵においた、青黒い病人じみた顔は目ばかり光って見えた、帯がとけかけたのも、ぞうりのはなおが切れたのもいっさいかれは気がつかぬもののごとく汽車を見つめていた。
 万歳万歳の声と共に校長の顔があらわれたときかれはじっと目を校長に据《す》えた。かれの胸はふるえかれの口元は悲痛と悔恨にゆるみ、そうしてかれの目から大粒の涙がこぼれた。
 かれは阪井|巌《いわお》である。
 汽車が見えなくなったときかれはようやくさくをはなれて長い溜《た》め息《いき》をついた。それからじっと大通りの方を見やった。そこには学校の友達が波のくずれるごとく、帰りゆく、阪井は顔をたれてしずかに歩いた。
 とだれかの声がした。
「生蕃がいる」
「阪井のやつがきている」
 少年達の目は一度に阪井にそそがれた、阪井は棒のごとく立ちすくんだ。
「やい生蕃」
 まっさきにつめよったのはライオンであった。
「やい」
 阪井はだまっている。
「きさまはなにしにきた」
「久保井先生に用事があってきたよ」と阪井はやはり顔もあげずにいった。
「きさまは久保井先生を学校からおいだしたんじゃないか、どの面《つら》さげてやってきたんだ」
「…………」
「おい、犬でも畜生《ちくしょう》でも恩は知ってるよ、おれはずいぶん不良だが校長先生の恩だけは知ってるんだ、きさまは先生をおいだした、犬畜生にもおとるやつだ」
「…………」
「きさまのようなやつはくたばってしまやがれ、きさまのようなやつがいるのは浦和の恥辱だぞ、どうだ諸君、こいつを打ち殺そうか」
「やっちまえやっちまえ」と声々が叫んだ。かれらはいま五分前に先生と悲しい別れをした、満々たる憤怒と悲痛はもらすこともできずに胸の中でうずまいている、なにかの刺激あれば爆発せずにいられないほど血潮がわき立っている。それらの炎々《えんえん》たる炎《ほのお》はすべて阪井の上に燃えうつった。
「やれやれ」
「制裁制裁」
 激昂《げっこう》した声は刻一刻に猛烈になった。人々は潮のごとく阪井に向かって突進した。
「なぐってくれ!」
 いままで罪人のごとく沈黙していた阪井はなんともいえぬ悲痛な顔をして、押しよせくる学友の前に決然と進みでた、そうしてぴたりと大地に座った。
「おれはあやまりにきたんだ、おれは先生にあやまりにきたんだ、おれはおまえ達に殺されれば本望だ、さあ殺してくれ、おれは……おれは……犬にちがいない、畜生にちがいない……」
 繃帯を首からつった片手をそのままに、片手は大地について首をさしのべた、火事場のあとをそのままの髪《かみ》の毛はところどころ焼けちぢれている、かれは眉毛一つも動かさない。
「あやまりにきたとぬかしやがる、弱いやつだ、さあ覚悟しろ」
 ライオンはほうばのげたのまま、かれの眉間《みけん》をはたとけった。阪井はぐっと頭をそらして倒れそうになったがじっと姿勢をもどして片手を大地からはなさない。
「畜生!」
「ばかやろう!」
「恩知らず」声々がわいた。
「なぐるのは手のけがれだ、つばをはきかけてやれ」
 とだれかがいった。つばの雨がかれの顔となく首となく背中となく降りそそいだ。
「ばかやろう!」
 最後に手塚がつばをはきかけた。
「手塚、おまえまでが」
 巌はじっと手塚を見詰めたので手塚は人中へかくれた。
「さあ帰ろう」とライオンがいった。「最後にのぞんで足であいつの頭をなでてやろう、さあみんな一緒《いっしょ》だぞ、一! 二! 三!」
 げたの乱箭《らんせん》が飛ぶかと思う一|刹那《せつな》。
「待ってくれ」
 はらわたをえぐるような声と共に柳は巌の身体《からだ》の上にか
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