を読んだり、宿題を解いたりしていた。巌はずらりとかれらを見まわした、これというやつがあったら喧嘩《けんか》をしてやろう。
だがあいにく弱そうなやつばかりで相手とするにたらぬ、そこでかれは木の下に立って一同を見おろしていた、かれの胸はいつも元気がみちみちている、かれは毎朝眼がさめるとうれしさを感ずる、学校へいって多くの学生をなぐったりけとばしたり、自由に使役したりするのがさらにうれしい。かれはいろいろな冒険談を読んだり、英雄の歴史を読んだりした、そうしてロビンソンやクライブやナポレオンや秀吉《ひでよし》は自分ににていると思った。
「クライブは不良少年で親ももてあました、それでインドへ追いやられて会社の腰弁《こしべん》になってるうちに自分の手腕をふるってついにインドを英国のものにしてしまった、おれもどこかへ追いだされたら、一つの国を占領して日本の領土を拡張しよう」
こういう考えは毎日のようにおこった、かれは実際|喧嘩《けんか》に強いところをもって見ると、クライブになりうる資格があると自信している。
「おれは英雄だ」
かれはナポレオンになろうと思ったときには胸のところに座蒲団《ざぶとん》を入れて反身《そりみ》になって歩いた。秀吉になろうと思った時にはおそろしく目をむきだしてさるのごとくに歯を出して歩く。かれの子分のしゃもじは国定忠治《くにさだちゅうじ》や清水《しみず》の次郎長《じろちょう》がすきであった、かれはまき舌でものをいうのがじょうずで、博徒《ばくと》の挨拶《あいさつ》を暗記していた。
「おれはおまえのような下卑《げび》たやつはきらいだ」と巌がしゃもじにいった。
「何が下卑てる?」
「国定忠治だの次郎長だの、博徒じゃないか、尻をまくって外を歩くような下卑たやつはおれの仲間にゃされない」
「じゃどうすればいいんだ」
「おれは秀吉《ひでよし》だからお前は加藤か小西になれよ」
かれはとうとうしゃもじを加藤清正《かとうきよまさ》にしてしまった。だがこの清正はいたって弱虫でいつも同級生になぐられている。大抵《たいてい》の喧嘩《けんか》は加藤しゃもじの守《かみ》から発生する、しゃもじがなぐられて巌に報告すると巌は復讐《ふくしゅう》してくれるのである。
いずれの中学校でも一番生意気で横暴なのは三年生である、四年五年は分別が定まり、自重心も生ずるとともに年少者をあわれむ心もできるが、三年はちょうど新兵が二年兵になったように、年少者に対して傲慢《ごうまん》であるとともに年長者に対しても傲慢である。
浦和中学の三年生と二年生はいつも仲が悪かった、年少の悲しさは戦いのあるたびに二年が負けた、巌はいつもそれを憤慨《ふんがい》したがやはりかなわなかった。
「二年の名誉にかかわるぞ」
かれはこういいいいした、かれはいま木の下に立って群童を見おろしているうちに、なにしろ五人分の弁当を食った腹加減《はらかげん》はばかに重く、背中を春日に照らされてとろとろと眠《ねむ》くなった。でかれは木の根に腰をおろして眠った。
「やあ生蕃《せいばん》が眠ってらあ」
学生どもはこういいあった。生蕃とは巌のあだ名である、かれは色黒く目大きく頭の毛がちぢれていた、それからかれはおどろくべき厚みのあるくちびるをもっていた。
うとうととなったかと思うと巌は犬のほえる声を聞いた。はじめは普通の声で、それは学生等の混雑した話し声や足音とともに夢のような調節《ハーモニー》をなしていたが、突然犬の声は憤怒《ふんぬ》と変じた。巌ははっと目を開いた。もうすべての学生が犬の周囲に集まっていた。二年生の手塚という医者の子が鹿毛《しかげ》のポインターをしっかりとおさえていた、するとそれと向きあって三年の細井という学生は大きな赤毛のブルドッグの首環《くびわ》をつかんでいた。
「そっちへつれていってくれ」と手塚が当惑《とうわく》らしくいった。
「おまえの方から先に逃げろ」と三年の細井がいった。
「やらせろ、やらせろ、おもしろいぞ」としゃもじが中間にはいっていった。犬と犬とが顔を見あったときまたほえあった。
「やれやれやれ」と一年[#「一年」はママ]が叫びだした。
「やるならやろう」と三年がいった。
「よせよ」
人々を押しわけて光一が進みでた、かれは手に代数の筆記帳を持っていた。
「やらせろ」と双方が叫んだ。
「つまらないじゃないか、犬と犬とを喧嘩《けんか》させたところでおもしろくもなんともないよ、見たまえ犬がかわいそうじゃないか、犬には喧嘩の意志がないのだよ」
「降参《こうさん》するならゆるしてやろう」と三年がいった。
「降参とかなんとか、そんなことをいうから喧嘩になるんだ」と光一はいった。
「だっておまえの方で、かなわないからやめてくれといったじゃないか」
「かなうのかなわないのという問題じゃないよ、ただね、つまらないことは……」
「なにを?」
三年の群れからライオンとあだ名された木俣《きまた》という学生がおどりだした、木俣といえば全校を通じて戦慄《せんりつ》せぬものがない、かれは柔道がすでに三段で小相撲《こずもう》のように肥って腕力は抜群である、かれは鉄棒に両手をくっつけてぶらさがり、そのまま反動もつけずにひじを立ててぬっく[#「ぬっく」に傍点]とひざまでせりあげるので有名である。柔道のじまんばかりでなく剣道もじまんで、どうかすると短刀をふところにしのばせたり、小刀をポケットにかくしたりしている。
木俣がおどりだしたので人々は沈黙《ちんもく》した。
「おじぎをしたらゆるしてやるよ、なあおい」
とかれは同級生をふりかえっていった。
「三|遍《べん》まわっておじぎしろ」
光一はもうこの人達にかかりあうことの愚を知ったのでひきさがろうとした。
「逃げるかッ」
木俣は光一の手首をたたいた、筆記帳は地上に落ちて、さっとページをひるがえした。光一はだまってそれを拾いあげしずかに人群れをでた。むろんかれは平素人と争うたことがないのであった。
「弱いやつだ」
三年生は嘲笑《ちょうしょう》した。
「いったいこの犬はだれの犬だ」と木俣はいった。人々は手塚の顔を見た。
「ぼくのだ」
「てめえに似て臆病《おくびょう》だな」
「なにをいってるんだ」と手塚は負けおしみをいった。
「二年生は犬まで弱虫だということよ」
三年生は声をそろえてわらった。二年生はたがいに顔を見あったがなにもいう者はなかった。
「やっしいやっしい」と木俣はブルドッグのしりをたたいた。赤犬はおそろしい声をだして突進した、鹿毛《しかげ》は少ししりごみしたがこのときしゃもじがその首環《くびわ》を引いて赤犬の鼻に鼻をつきあてた、こうなると鹿毛もだまっていない、疾風《しっぷう》のごとく赤犬にたちかかった、赤は前足で受け止めて鹿毛の首筋の横にかみついた、かまれじと鹿毛は体をかわして赤の耳をねらった。一離一合《いちりいちごう》! 殺気があふれた。
二、三度同じことをくりかえして双方たがいに下手をねらって首を地にすえた。
「やっしいやっしい」
両軍の応援は次第に熱した。このとき二年生は歓喜の声をあげた。のそりのそり眠そうな目をこすりながら生蕃《せいばん》がやってきたからである。
「生蕃がきた」
「たのむぞ」
「やってくれ」
声々が起こった。生蕃は一言もいわずに敵軍をジロリと見やったとき、ライオンがまた同じくジロリとかれを見た。二年の名誉を負うて立つ生蕃! 三年の王たるライオン! 正《まさ》にこれ山雨きたらんとして風|楼《ろう》に満つるの概《がい》。
犬の方は一向にはかどらなかった、かれらはたがいにうなり合ったが、その声は急に稀薄《きはく》になった、そうして双方歩み寄ってかぎ合った。多分かれらはこう申しあわしたであろう。
「この腕白《わんぱく》どもに扇動《せんどう》されておたがいにうらみもないものが喧嘩したところで実につまらない、シナを見てもわかることだが、英国やアメリカやロシアにしりを押されて南北たがいに戦争している、こんな割《わ》りにあわない話はないんだよ」
赤は鹿毛《しかげ》の耳をなめると鹿毛は赤のしっぽをなめた。
犬が妥協《だきょう》したにかかわらず、人間の方は反対に興奮《こうふん》が加わった。
「やあ逃げやがった」と三年がわらった。
「赤が逃げた」と二年がわらった。
「もう一ぺんやろうか」と細井がいった。
「ああやるとも」と手塚がいった、元来生蕃は手塚をすかなかった、手塚は医者の子でなかなか勢力があり智恵と弁才がある、が、生蕃はどうしても親しむ気になれなかった。
ふたたび犬がひきだされた、しゃもじと細井は犬と犬との鼻をつきあてた。「シナの時勢にかんがみておたがいに和睦《わぼく》したのにきさまはなんだ」と鹿毛《しかげ》がいった。
「和睦《わぼく》もへちまもあるものか、きさまはおれの貴重な鼻をガンと打ったね」
「きさまが先に打ったじゃないか」
「いやきさまが先だ」
「さあこい」
「こい」
「ワン」
「ワンワン」
すべて戦争なるものは気をもって勝敗がわかれるのである、兵の多少にあらず武器の利鈍《りどん》にあらず、士気|旺盛《おうせい》なるものは勝ち、後ろさびしいものは負ける、とくに犬の喧嘩をもってしかりとする、犬のたよるところはただ主人にある、声援が強ければ犬が強くなる、ゆえに犬を戦わさんとすればまず主人同士が戦わねばならぬ。
三年と二年! 双方の陣に一道の殺気|陰々《いんいん》として相《あい》格《かく》し相《あい》摩《ま》した。
「おい」と木俣は巌にいった。
「犬に喧嘩をさせるのか、人間がやるのか」
「両方だ」と巌は重い口調でいった。
「うむ、いいことをいった、わすれるなよ」と木俣はいった。このときおそろしい犬の格闘《かくとう》が始まった。
犬はもう憤怒《ふんぬ》に熱狂した、いましも赤はその扁平《へんぺい》な鼻を地上にたれておおかみのごとき両耳をきっと立てた、かれの醜悪《しゅうあく》なる面はますます獰猛《どうもう》を加えてその前肢《まえあし》を低くしりを高く、背中にらんらんたる力こぶを隆起してじりじりとつめよる。
鹿毛《しかげ》はその広い胸をぐっとひきしめて耳を後方へぴたりとさか立てた。かれは尋常ならぬ敵と見てまず前足をつっぱり、あと足を低くしてあごを前方につき出した。かれは赤が第一に耳をめがけてくることを知っていた、でかれはもし敵がとんできたら前足で一撃を食わしよろめくところを喉《のど》にかみつこうと考えた。四つの目は黄金色《こがねいろ》に輝いて歯は雪のごとく白く、赤と鹿毛の毛波はきらきらと輝いた。八つの足はたがいに大地にしっかりとくいこみ双方の尾は棒のごとく屹立《きつりつ》した。尾は犬の聯隊旗である。
「やっしいやっしい」
人間どもの叫喚《きょうかん》は刻一刻に熱した、二つの犬は隙《すき》を見あって一合二合三合、四合目にがっきと組んで立ちあがった。このとき木俣の身体《からだ》がひらりとおどりでて右足高く鹿毛の横腹に飛ぶよと見るまもあらず、巌のこぶしが早く木俣のえりにかかった。
「えいッ」
声とともにしし王の足が宙《ちゅう》にひるがえってばったり地上にたおれた。
「いけッ」
二年生はこれに気を得《え》て突進した。
「くるなッ」
巌がこうさけんだ、かれは倒れた敵をおさえつけようともせずだまって見ていた、かれは木俣の寝業《ねわざ》をおそれたのである、木俣の十八番は寝業である。
「生意気な」
木俣は立ちあがってたけりじしのごとく巌を襲《おそ》うた、捕えられては巌は七分の損《そん》である、かれは十七歳、これは十五歳、柔道においても段がちがう、だが柔道や剣術と実戦とは別個のことである。喧嘩になれた巌は進みくる木俣を右に透《すか》しざまに片手の目つぶしを食わした。木俣のあっとひるんだ拍子《ひょうし》に巌は左へ回って向こうずねをけとばした。
「畜生《ちくしょう》」
木俣は片ひざをついた、がこのときかれの手は早くもポケットに入った、一挺《いっちょう》の角柄《つのえ》の小刀がその手にきらりと輝いた。
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