》紆曲《うきょく》して障子の色まっ白に、そこらからピアノの音が栄華をほこるかのごとく流れてくる。
「ああその家はぼくの父の家だったのだ」
 チビ公は暗然としておけを路傍《ろぼう》におろして腕をくんだ。
「お父さんは政党のためにこの家までなくしてしまったのだ。お父さんはずいぶん人の世話もし、この町のためになることをしたのだが、いまではだれひとりそれをいう者がない。その子のぼくは豆腐を売って……それでもご飯を食べることができない」
 チビ公は急になきたくなった、かれは自分が生まれたときには、この邸《やしき》の中を女中や乳母《うば》にだかれて子守り歌を聞きながら眠ったことだろうと想像した。
「つまらないな」とかれは歎息《たんそく》した。「いくら働いてもご飯が食べられないのだ、働かない方がいい、死んでしまうほうがいい、ぼくなぞは生きてる資格がないのだ、路傍のかえるのように人にふまれてへたばってしまうのだ」
 暗い憂欝《ゆううつ》はかれの心を閉《と》ざした。かれは自分の影法師がいかにも哀《あわ》れに細長く垣根に屈折しているのを見ながらため息をはいた。
「影法師までなんだか見すぼらしいや」
 ピアノの音は樹々の葉をゆすって涼風《すずかぜ》に乗ってくる。
「お父さんのある者は幸福だなあ、ああしてぼうんぼうんピアノをひいて楽しんでいる」
 かれはがっかりしておけをかついだ。つかれた足をひきずって二、三|間《げん》歩きだすとそこでひとりの女の子にあった。それは光一の妹の文子《ふみこ》であった。かの女《じょ》は尋常《じんじょう》の五年であった。下《しも》ぶくれのうりざね顔で目は大きすぎるほどぱっちりとして髪を二つに割って両耳のところで結び玉をこさえている。元禄袖《げんろくそで》のセルに海老茶《えびちゃ》のはかまをはき、一生懸命にゴムほおずきを口で鳴らしていた。
「今晩は」とチビ公は声をかけた。
「今晩は」と文子はにっこりしていった。がすぐ思いだしたように、
「青木さん、兄さんがあなたを探してたわ」
「兄さんが?」
「ああ」
「何か用事があるんですか」
「そうでしょう私知らないけれども」
 文子はこういってまたぶうぶうほおずきをならした。
「急用なの?」
「そうでしょう」
「なんだろう」
「会えばわかるじゃないの?」
「それはそうですな」
「兄さんがいま、家にいるでしょう、いってちょうだいね」
 文子はこういったがすぐ「私も一緒《いっしょ》にいくわ、あそこに大きな犬がいるからおいはらってちょうだいね」
「ああ酒屋の犬ですか」
 ふたりは並んで歩きだした。小学校にいたときには文子はまだまだおさなかった。げたのはなおが切れて難儀《なんぎ》してるのを見てチビ公はてぬぐいをさいてはなおをすげてやったことがある。そのとき肩につかまって片足をチビ公の片足の上に載《の》せたことをかれは記憶している。
 ふたりは光一の家の裏口の前へきた。
「待っててね」
 文子は足をけあげて走りだし、勝手口の戸をあけたかと思うと大きな声で叫んだ。
「兄さん、青木さんをつれてきたわ、兄さん早く」
 光一の姿が戸のあいだからあらわれた。
「やかましいやつだな、おてんば!」
「そんなことをいったら青木さんをつれてきてあげないわ」
「おまえがつれてこなくても青木君はここにいるじゃないか」
 光一はわらいながらチビ公の方を向き、
「きみ、ちょっとはいってくれたまえ」
「ぼくはどろあしですから」
「そうか、じゃ庭へいこう」
 チビ公はおけを片隅において光一の後ろにしたがった。ふたりは、うの花が雪のごとくさきみちている中庭へでた。そこの鶏舎《けいしゃ》にいましも追いこまれたにわとりどもは、まだごたごたひしめきあっていた。
「きみに相談があるんだがね」と光一は謹直《きんちょく》な顔をしていいだした。
「ぼくはぼくの父ともよく相談のうえでこのことをきめたんだが」
「どんなことですか」
「つまり、きみにもいろいろ不幸な事情が重なってるようだがきみはもう少し学問をする気がないかね」
「それはぼくだって……」とチビ公は早口にいった。「学問はしたいけれどもぼくの家は……」
「だからねえきみ、きみが中学校をやって大学をやるまでの学資《がくし》ならぼくの父がだしてあげるとこういうのだ。きみは学校でいつも優等だったしね、それからきみの性質や品行のことについてはこの町の人はだれでも知ってるんだからね、豆腐屋をしてるよりも、学問をしたら、きっと成功するだろうと父もいうんだ、実はね、こんど生蕃の親父の一件できみの伯父さんがあんなことになったろう、それできみは夜も昼もかせぎどおしにかせいでいるのを見てぼくの父は……」
「ああわかった」と、チビ公は思わず叫んだ。「伯父さんのさしいれ物をしてくれたのはあなたのお父さんですね
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