顔をつきあわしてなにか語った。文子はろばをはじめとして他のふたりの少年とはあまり親しくなかったのでなんとなき不安を感じながら立っていた。
「いきましょう」と新ちゃんは文子に近づいていった。
「私の家へいってくださる?」
「ああおよりするわ、でもなにか食べてからにしましょうよ」
「なにを食べるの?」
「私ね、おしるこを食べたいわ、それともチャンにしましょうか」
「チャンてなあに」
「支那料理よ」
「私食べたことはないわ」
「おいしいわ」
 文子は学校で友達から支那料理のおいしいことを聞いていた。どんなものか食べてみたいと母にいったとき、母はそんなものはいけませんと拒絶《きょぜつ》した。
「だが食べてみたい」
 好奇心が動いた。
「でも私お金が……」
「私持ってるからいいわ」
「いけない」と文子は猛然《もうぜん》と思い返した、母に禁ぜられたものを食べること、他人のご馳走《ちそう》になること、これはつつしまねばならぬ。
「私|叱《しか》られるから」
「叱られる?」
 新ちゃんはにやにやとわらったがやがてまたいった。
「じゃよしましょうね」
 ふたりは活動写真館の前へ出た、日曜のこととて館前は楽隊の音にぎやかに五色の旗がひるがえっている。新ちゃんは立ちどまった。
「はいってみましょうか、私|切符《きっぷ》があるわ」
「ああちょっとだけね」
 文子《ふみこ》はこのうえ反対ができなかった、かの女は五、六度女中や店の者と共にここへきたことがあるのだ。写真を見たとて母に叱《しか》られはしまい。こう思った。
 新ちゃんと文子は暗がりを探《さぐ》って二階の正面に陣取った、写真は一向面白くなかった、がだんだん画面が進行するにつれて最初に醜悪と感じた部分も、弁士の黄色な声もにごった空気もさまでいやでなくなった、そうして家庭や学校では聞かれない野卑な言葉や、放縦《ほうじゅう》な画面に次第次第に興味をもつようになり、おわりには筋書《すじが》きの進行につれてないたりわらったりするようになった。
「面白い?」と新ちゃんはいくどもきいた。
「面白いわ」
 ぱっと場内が明るくなるといつのまにかさっきの三人が後ろにきていた。
「出ようよ」とひとりがいう。
「うむ」
 新ちゃんと文子も二階を降りた。
「こっちが近い」
 ひとりがいった、一同は路地口からどぶいたをわたった、そうして、とある扉《ドア》を押してそこから階段を昇った、昇りつめるとそれは明るいガラス戸のついた支那料理屋の二階であった、向こう側の呉服屋その隣の時計屋なども見える。
「私帰るわ」と文子はおどろいていった。
「いいじゃないの? ワンタンを一つ食べていきましょう」と新ちゃんがいった。
「でも……私」
「お金のことを気にしてるんでしょう、かまわないわ、この人達はねいま材木屋の前でお金を拾ったんですとさ、いくらおごらしてもかまやしない、ねえろば」
「ろばろばというなよ」とろばがいった。
 新ちゃんはだまってがま口をろばになげつけた。銀貨がざらざらとこぼれた。
「いくら使ったえ」と他のひとりがいった。
「二人前の切符《きっぷ》代だけもらったよ」と新ちゃんがいった。
「拾ったお金で活動を見たの?」と文子は仰天《ぎょうてん》していった。だれもそれには答えなかった。
「帰らして頂戴」と文子はなき声になった。
「帰ってもいいよ、どうせおれ達の仲間になったんだから、帰りたければ帰ってもいい」
「私が仲間?」
「おまえ達はだまっておいで」と新ちゃんは男共を制した、そうして文子にこうささやいた。
「こわいことはないのよ、あの人等はばかなんだから……でも文子さん、あなたも同じがま口の金を使ったんだからお友達におなりなさいね、そうしないとあの人等はお宅《たく》へいってお母《かあ》さんになにをいうか知れませんよ、ねえ、毎日でなくても、たまにちょいちょい私達と遊びましょう、ね、お母さんに知れたら困るでしょう」
 文子は呼吸もできなかった、実際すでに不正な銭のご馳走《ちそう》になったのである、こんなことが母に知れたら母はどんなに怒るだろう、怒られても仕方がないが、母が歎《なげ》きのあまり病気になりはしないか、それからまた兄さんは……兄さんの名誉にかかわることがあると……。
 哀《あわ》れ文子は四苦八苦の死地に陥《おちい》った、かの女は去るにも去られなくなった。と階段の音が聞こえてひとりの学生が現われた。
「やあ」
 文子は顔をあげた、それは兄の友の手塚であった。かれはロシアの百姓が着るというルパシカに大きな縁のあるビロードの帽子をかぶっていた。
「どうしたの? 文子さん」とかれはいった。文子は手塚の腕にすがりついてなきだした。
「お前達はどうかしたんじゃないか」と手塚はなじるように一同に向かっていった。
「なにもしないよ」とろばが
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