に貧乏しても青木は伯父さんをありがたいと思っている、なあ手塚、青木は活動も見ない、洋食も食べたことはない、バイオリンもひかない、女の子と遊びやしない、かれはただ一高の寮歌《りょうか》をうたって楽しんでいる、不器用な調子はずれな声をだして、ああ玉杯《ぎょくはい》に花うけてとうたっている、それだけが彼の楽しみだ、この楽しみに比べてきみの楽しみはどうだ、活動、洋食、バイオリン、君の楽しみは金のかかる楽しみだ、青木は堤の草に寝ころんで玉杯をうたってるとき、きみはがま口から銀貨をつかみだして不良共にふりまいている、どっちの楽しみが純潔だろう、ぼくはきみを攻撃する資格がない、ぼくだって青木に比べるとはるかに劣等だ、劣等なぼくらが不自由なく学問しているのに、優秀な青木は豆腐を売っている、もったいないことだ、もしぼくらが親を失い貧乏になったら青木のごとく苦学するだろうか、きみはいつも青木を軽蔑《けいべつ》するが、それがきみの劣等の証拠《しょうこ》だ、活動に趣味を有するものは高尚《こうしょう》な精神的なものがわからない、なあ手塚、腹が立つなら奮発してくれ、ぼくのお願いだ、ぼくは一生きみと親友でありたいのだ」
光一の言葉は一語ごとに熱気をおびてきた、かれは手塚の自尊心を傷つけまいとつとめながらも、次第にこみあげてくる感情にかられて果ては涙をはらはらと流した。
「柳!」
手塚はぐったりと首をたれていった。
「堪忍してくれ、ぼくは改心する」
「そうか」
光一は嬉しさのあまり手塚をだきしめたが急に声をだしてないた。手塚もないた。日は暮れてなにも見えなくなった。横合いの小路《こうじ》をらっぱをふきふきチビ公が荷をゆすってうたいゆく。
「……清き心のますらおが、剣《つるぎ》と筆とをとり持ちて、一たびたたば何事か、人生の偉業成らざらん、ぷうぷう、豆腐イ、ぷうぷう」
十一
柳一家はいつも幸福に満たされていた、光一の心はいつも平安であった、かれの一番好きなのは朝である。かれは朝に目をさますと寝床《ねどこ》の中で校歌を一つうたう、それから床《とこ》をでて手水《ちょうず》をつかい茶の間へゆくと父と母と妹が待っている。
「お兄さんは寝坊ね」
妹の文子《ふみこ》はいつもこうわらう、兄妹の規約としておそく起きたものがおじぎをすることになっている、光一は毎日妹におじぎをせねばならなかった。癪《しゃく》にさわるが仕方がない。
茶の間にはさわやかな朝日が一ぱいに射しこむ。飯びつやなべからあがる湯気はむつまじげに日光と遊んでいる、父はにこにこしてふたりの子を見くらべる、母は三人のお給仕にいそがしく自分で食べるひまもなかった。かの女は光一と文子の食力を計算する事を決してわすれなかった、今日はいつもより多く食べたといっては喜び少なく食べたといっては病気ではないかと心配する。大抵《たいてい》光一は五杯の飯を食べるが文子は三杯であった、5対3ではあるが、光一の方はスピードが速いのでほとんど同時におしまいになる、それから一緒《いっしょ》に家をでる。
「おまえ後からおいで」
「兄さんは男だから後になさいよ」
この争いは絶ゆることがない、二、三年前までは一緒に肩を並べていったものだが、このごろではふたり揃うてゆくのはきまりが悪い。特に光一に取っては迷惑至極《めいわくしごく》であった。
「きみの妹は綺麗だね」
こう友達にいわれてからかれはたとえ親父《おやじ》の葬式の日でも妹と一緒には歩かないと覚悟を決めた。
だがかれは妹が好きであった、妹はすらりと姿勢がよく、おさげの脳天《のうてん》に水色のちょうちょうのリボンをつけているが、それが朝日に輝いていかにもかわいらしい、かれはまた文子の長いえび茶のはかまやその下から見えるまっすぐな脚《あし》と靴の恰好《かっこう》が好きであった。文子は洋服よりも和服が似合う。文子はまただれよりも兄さんが好きであった、野球試合のあるときにはかの女はいつも応援旗を持ってでかけた、兄さんが負けたときには家へ帰って夕飯も食べずに寝てしまうのでいつも母にわらわれた。
そのくせふたりはおりおり喧嘩《けんか》をした、文子の一番嫌いなことは顔がふくれたといわれることである。
「おい、おまえの頬《ほ》っぺたがだんだんふくれてきたね」
「いいわ」
「後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてるぞ」
「いいわ」
「ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの頬《ほ》っぺたを売ってたよ、買ってこようと思ったら丸いなすだった」
「いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの?」
「これはじきなおるよ」
「口のはたに黒子《ほくろ》があるから大食いだわ」
「食うに困らない黒子《ほくろ》なんだ」
喧嘩のおわりはいつも光一が母に叱《しか》られることになっている。
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