れは近藤勇か」と光一がきいた。
「ちがう、近藤勇はあんな懦弱《だじゃく》な顔をしておらんぞ」
「きみは近藤勇を知ってるのか」
「知らんよ、だがあんな下等ないものような面《つら》じゃない」
「元来ちょんまげの頭は下等なものだよ、ぼくはあれを見るとたまらなくいやになる」
「それでも近藤勇ならいいよ、国定忠治《くにさだちゅうじ》だの鼠小僧だの、博徒《ばくと》やどろぼうなどを見て喜んでるやつはくそだめへほうりこむがいい、おれは近藤勇だ」
だが彰義隊《しょうぎたい》君の期待するような近藤勇は現われなかった、のどに魚の骨を刺《さ》したような声で弁士は説明した、それによるといものような面《つら》は近藤勇なのである。
「だめだだめだ」と彰義隊はまたもや憤慨した。
「そら敵がきた、足をくばって、足、足! 足を……右足を軽くせんと横から斬りこまれたときに体が固くなるぞ、ああああだめだ、あの役者はすきだらけだ、あんな近藤勇があるもんか、ああばかッ、上段にふりかぶるやつがあるか、手元につけこんで胴を斬られるぞ、ばかッ切っ先がさがってる、切っ先が、そんな剣客が、ああああばかばかばか」
彰義隊があまりに憤慨するので周囲の人々はこそこそと逃げてしまった。実際彰義隊の目から見ると……光一の目から見てもこの役者の剣闘はめちゃめちゃなものであった、それでも見物人は喝采していた。
「おれは帰る」と彰義隊は立ちあがった、「ばかばかしくて見ておられん」
彰義隊はかんかんにおこって帰った、光一はほっと溜《た》め息《いき》をついた。そうしてしずかに二階へあがった。暗がりの欄干《らんかん》のそばに手塚は頭から羽織をかぶって一生懸命にスクリーンを眺めながら声をかけている。
「いよう、大統領!」
その隣にいた小さい女の子が皮もむかずにりんごをかじっている、その隣で手塚より首一つだけ背の高いろばとあだ名されてる青年が奇妙な声で叫んだ。
「いよう、せいちゃん!」
「清《せい》ちゃん、しっかり!」と手塚は叫んだ。近藤勇《こんどういさみ》に扮《ふん》した役者は清ちゃんという名前なのだ。手塚はこういう場所で、役者やなにかの事をくわしく知っているということを見物人にほこりたいのであった。
「手塚君」と光一は声をかけた。手塚はふりむいたがすぐ横を向いた。
「手塚君」と光一はそばへ歩みよったときろばのひざに足をあてた。
「痛えな、気をつけやがれ」とろばはいった。
「失敬」
光一はあやまった、ろばは中学を二度ほど落第して退学してから、ぶらぶら家に遊んでは手塚とともにどこへでもいく男である。
「手塚君、ぼくはちょっときみに話したいことがあるんだが外へでてくれんか」と光一はいった。
「いやだ」と手塚はいった。
「ちょっとでいいんだよ」
「いやだというものを無理にひっぱりださなくたっていいだろう」とろばがいった。
「大事なことだからさ、でないときみの身体《からだ》が危ないんだ」
「いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、面白いなぐってもらおう」
ろばはほえた。
「おまえはだまってろ」と光一はきっといった。「おまえに用があるんじゃない、手塚に用があるんだ」
「なにを?」
「喧嘩か、喧嘩するなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て」
光一はこういってじっとろばの顔をのぞいた、ろばはだまった、そうして隣席の女の子がかじりかけたりんごを取ってがぶりとかじった。
手塚は光一の権幕《けんまく》におそれてしぶしぶ席を立った。ふたりは外へでた。と向こうのくだもの屋の前で彰義隊《しょうぎたい》がひとりの学生と話をしていた。光一はハッと思った。
「手塚隠れろ、荷車の横を歩いていこう」
ふたりは彰義隊に見つからぬように群衆にまぎれて材木屋の前へ出た。
「なんの用だ」と手塚は不平そうにいった。
「きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの忠告をきいてくれたらぼくは生命《いのち》にかえてもきみを保護しようし、また学校でもきみをゆるすことになっている」
「ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない」
「それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい」
「ぼくに改めるべき点があるのか」
「あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、その候補者としてきみが数えられている」
「ぼくが不良?」
「きみはよく考えて見たまえ」
「ぼくは考える必要がない」
「じゃ君、活動へいくのは?」
「活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ」
「そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ」
「面白いからさ」
「面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものが面白いかね」
「人
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