ありません」
「火傷《やけど》がなおらないうちに外へ出歩いてはいけないよ、おや、ひたいをどうしたんです」
「なんでもありません」
「また喧嘩かえ」
「あちらへいっててください」と巌はかみつくようにいった。
「なにをそんなにおこってるんです」
 母はきっと目をすえた。その目には不安の色が浮かび、口元には慈愛《じあい》が満ちている。
「なんでもいいです」
「なにか気にさわることがあるならおいいなさい」
「あちらへいってくださいというに」
 母はしおしおとでていった。巌は起きあがって母の後ろ姿を見やった。なんともいいようのない悲しみが一ぱいになる。お母《かあ》さんにはあんな乱暴な言葉を使うんじゃなかったという後悔がむらむらとでてくる。
「どうしようか」
 実際かれは進退にまようた。いままで神のごとく尊敬していた父は悪人なのだ。この失望はかれの単純な自尊心を谷底へ突き落としてしまった。かれにはまったく光がなくなった。
 死んでしまおうか。
 いや! 平重盛《たいらのしげもり》はばかだ。
 二つの心持ちが惑乱して脳の底が重たくだるくなった。かれはじっと机の上を見た。そこに友達から借りた漢文の本がひらいたまま載《の》っている。
「周処三害《しゅうしょさんがい》」
 支那に周処という不良少年があった。喧嘩はする。強奪はする。村の者をいじめる、田畑をあらす、どうもこうもしようのない悪者であった。あるときかれの母が大変ふさぎこんでいるのを見てかれはこうきいた。
「お母さんなにかご心配があるのですか」
「ああ、私はもう心配で死にそうだ」と母がいった。
「なにがそんなにご心配なのですか」
「この村に三害といって三つの害物がある。そのために私も村の人も毎日毎日心配している」
「三害とは何ですか」
「南山《なんざん》に白額《はくがく》のとらが出《い》でて村の人をくらう、長橋《ちょうきょう》の下に赤竜《せきりゅう》がでて村の人をくらう、いま一つは……」
 こういって母は周処の顔を見やった。
「いま一つはなんですか」
「おまえだ、おまえがわるいことをして村の害をなす、とらとりゅうとおまえがこの村の三害だ」
 この話を聞いた周処は俄然《がぜん》としてさとった。
「お母さん、ご安心なさい、ぼくは三害をのぞきましょう」
 周処は南山へ行って白虎を殺し、長橋へいって赤竜を殺し、自分は品行を正しくして村のために善事をつくした。ここにおいてこの村は太平和楽になった。
 巌は読むともなしにそれを読んだ。突然《とつぜん》かれの頭に透明な光がさしこんだ。かれは呼吸《いき》もつかずにもう一度読んだ。
「三害を除こう、おれは男だ」かれはこう叫んだ。
「おれに悪いところがあるならおれが改めればいい、お父様《とうさま》に悪いところがあるならおれがいさめて改めさせればいい、ふたりが善人になればこの町はよくなるのだ、南山にとらをうちにゆく必要もなければ長橋にりゅうをほふりにゆく必要もない、第一の害はおれだ、おれを改めて父を改める、それでいいのだ」
 かれは立って室《へや》を一周した、得《え》もいえぬ勇気は全身にみなぎって歓喜の声をあげて高く叫びたくなった。
 かれは窓を開いて外を見やった、すずしい風が庭の若葉をふいてすだれがさらさらと動いた、木々の緑はめざめるようにあざやかである。
「豆腐《とうふ》イ……」
 らっぱの音と交代にチビ公の声が聞こえる。
「チビ公だ」かれは伸びあがってへいの外を見やった。
「とうふ[#「とうふ」に傍点]い――」
 暑い日光をものともせず、大きなおけをにのうてゆくチビ公のすげ笠がわずかに見える。
「おれはあいつにあやまらなきゃならない」巌は脱兎《だっと》のごとくはだしのままで外へでた。そうして突然チビ公の前に立ちふさがった。
「青木! おい、堪忍《かんにん》してくれ、なあおいおれは悪かった、おれは今日から三害を除《のぞ》くんだ」

         七

 お宮のいちょうが黄色になればあぜにはすすき、水引き、たでの花、露草《つゆくさ》などが薄日《うすび》をたよりにさきみだれて、その下をゆくちょろちょろ水の音に秋が深くなりゆく。
 役場の火事については町の人はなにもいわなくなった、阪井猛太は助役をやめてせがれの巌と共に川越《かわごえ》の方へうつった、中学校には新しい校長がきた。浦和の町は太平である。
 チビ公はやはり一日も休まずに豆腐を売りまわった、それでも一家のまずしさは以前とかわりがなかった、かれは毎日らっぱをふいて町々を歩いているうちにいくどとなく昔の小学校友達にあうのである、中には光一のようにやさしい言葉をかけてくれるものもあるが、多くは顔をそむけて通るのである。チビ公としても先方の体面をはばかってそしらぬ顔をせねばならぬこともあった、とくにかれの心を
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