っているだろうと思った。
 かれは微笑した、それはいかにも自然に腹の中からわきでたおだやかな微笑であった。いつもかれはこのところでいくどか躊躇《ちゅうちょ》した、かれは生蕃をおそれたのであった、がかれはいま、それを考えたとき恐怖《きょうふ》の念が夢のごとく消えてしまった。でかれは堂々とらっぱをふいた。
 町の角に……はたして生蕃が立っていた。
「やい」と生蕃は血走った目でチビ公をにらんだ。
「おまえに食わせる豆腐《とうふ》はないぞ」とチビ公は昂然《こうぜん》といった。
「なにを?」
 生蕃はびっくりして叫んだがつぎの句がつげなかった、かれはいつも涙《なみだ》ぐんでぺこぺこ頭を下げるチビ助《すけ》が、しかも昨夜かれの伯父がおれの父をなぐったことを知ってるチビ助が、復讐《ふくしゅう》のおそれも感ぜずにいつもより勇敢《ゆうかん》なのを見ると、実際これほどふしぎな現象はないのであった。
「待てッ」
「待っていられないよ、明日《あす》の朝またあおうね」
 チビ公はずんずん去ろうとした。
「こらッ」
 生蕃の手がてんびん棒にかかった、とこのとき電柱の陰《かげ》から声が聞こえた。
「阪井、よせよ」
 それは柳光一であった。
「なんでえ」
「きみは悪いよ」と光一は歩みよった。
「なんでえ」と生蕃がほえた。
「きみはぼくと親友になるといったことをわすれたか」
「わすれはしねえ」
「じゃ、一緒に学校へいこう」
「しかし」
「もういいよ」
 光一は生蕃のひじをとった、そうしてチビ公ににっこりしてふりかえった。チビ公は鳥打帽《とりうちぼう》をぬいで一礼した。
 この日ほど豆腐の売れた日はなかった、町では覚平《かくへい》が助役をなぐって拘留《こうりゅう》されたという噂《うわさ》が一円に拡がった、しかもそれは貧しき豆腐屋の子がになってくる豆腐を強奪したうらみだとわかったので町内の同情は流れの低きにつくがごとくチビ公に集まった。
「買ってやれ買ってやれかわいそうに」
 豆腐のきらいな家までが争うて豆腐を買った、チビ公のふくらっぱは凱歌《がいか》のごとく鳴りひびいた。
 二時間にして売りつくしたのでチビ公は警察へいった。
「伯父さんをゆるしてください、伯父さんが悪いんでないのです、酒が悪いんですから」
 かれは警部にこう哀願《あいがん》した。
「警察ではゆるしてやりたいんだ」と警部は同情の目をまた
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