ねえ、豆腐屋だと思って尊氏《たかうじ》の畜生ばかにするない」
「千三どうしたのさ、千三」
「お母《かあ》さんですか」
 千三はこういってはじめてわれにかえった。母はじっと千三を見つめた、千三の顔は次第次第にいきいきと輝いた。
「お母さん、ぼくは勉強します」
 母はだまっている。
「ぼくは今日《きょう》先生にぼくのご先祖のことを聞きました。北畠顕家《きたばたけあきいえ》、親房《ちかふさ》……南朝《なんちょう》の忠臣です。その血を受けたぼくはえらくなれない法がありません」
「だけれどもね、このとおり貧乏ではおまえを学校へやることもできずね」
 母はほろりとした。
「貧乏でもかまいません。お母さん、顕家《あきいえ》親房《ちかふさ》はほんのはだか身でもって奥州や伊勢や諸所方々で軍《いくさ》を起こして負けては逃げ、逃げてはまた義兵を集め、一日だって休むひまもなく天子様のために働きましたよ、それにくらべると日に三度ずつご飯を食べているぼくなぞはもったいないと思います。ねえお母さん、ぼくはいま夢を見たんです。先祖の親房《ちかふさ》という人はじつにりっぱな顔でした、ぼくのようにチビではありませんよ、尊氏《たかうじ》のほうをきっとにらんだ顔は体中忠義の炎《ほのお》が燃えあがっています。ぼくだって忠臣になれます。ぼくだってね、チビでも忠臣になれないことはないでしょう」
「いい夢を見たね」
 母は病みほおけた身体《からだ》を起こして仏壇に向かっておじぎした。
 千三は生まれかわった。翌日からなにを見ても嬉しい。かれは外を歩きながらそればかりを考えている。
「やあ向こうから八百屋の半公がきたな、あれも忠臣にしてやるんだ。おれの旗持ちぐらいだ、ああぶりき屋の浅公、あれは母親の財布《さいふ》をごまかして活動にばかりいくが、あれもなにかに使えるから忠臣にしてやる、やあ酒屋のブルドッグ、あれは馬のかわりにならないから使ってやらない」
 黙々《もくもく》先生はチビ公が急に活気づいたのを見てひとりほくほく喜んでいた。
 ある日かれはひとりの学生を先生に紹介《しょうかい》された。それは昨年第一高等学校に入学した安場五郎《やすばごろう》という青年である。黙々塾《もくもくじゅく》をでて高等学校へはいれたのは安場ひとりきりである。先生は安場が好きであった。色が赤黒く顔は七輪に似て、ようかん色になった制服を着て
前へ 次へ
全142ページ中84ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐藤 紅緑 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング