おまえがそこで生まれたのです、萩《はぎ》の天井です、床《とこ》の間《ま》には……」
母の声はハタとやんだ、彼女は目をうっとりさせて昔その夫《おっと》が世にありしときの全盛な生活を回想したのであった。
「あのときには女中が五人、書生が三人……」
睫毛《まつげ》を伝うて玉の露がほろりとこぼれる。
「お母さん! つまらないことをいうのはよしてください、ぼくはいまにあれ以上の家を建ててあげます」
「そうそう、そうだね」
母はさびしくわらった、千三はたまらなく苦しくなった、いままで胸の底におさえつけておいた憂欝《ゆううつ》がむらむらと雲のごとくわいた。かれは薬をもらいに医者の家へゆく、支那風の天井の下に小さく座っていると例の憂欝がひしひしとせまってくる。
「ああここがおれの生まれたところなんだ、おれが生まれたときに手塚の親父がぺこぺこ頭をさげて見舞いにきたんだ、それがいまそいつに占領されてあべこべにおれの方が頭をさげて薬をもらいにきてる」
ある日かれはこんなことを考えながら門をはいろうとするとそこで代診《だいしん》森君が手塚とキャッチボールをしていた。
「そらこんどはドロップだぞ」
手塚は得意になって球をにぎりかえてモーションをつけた。
「よしきた」
森君はへっぴり腰になって片足を浮かしてかまえた、もし足にあたりそうな球がきたら片足をあげて逃がそうという腹なのである。
「さあこい」
「よしッ」
球は大地をたたいて横の塀《へい》を打ちさらにおどりあがって千三の豆腐おけを打ち、ころころとどぶの方へころがった。
「おい豆腐屋! 早く球をとれよ」手塚がさけんだ。
「はッ」
千三はおけをかついだまま球をおっかけた、おけの水はだぶだぶと波をおどらして蓋《ふた》も包丁も大地に落ちた。
「やあやあ勇敢勇敢」と森君は喝采した、千三は球が石のどぶ端を伝って泥の中へ落ちこもうとするやつをやっとおさえようとした、てんびん棒が土塀にがたんとつきあたったと思うとかれははねかえされて豆腐おけもろとも尻餅《しりもち》をついた。豆腐は魚の如くはねて地上に散った。
「ばかだね、おけを置いて走ればいいんだ、ばかッ」
手塚はこういって自分でどぶどろの中から球をつまみあげ、いきなり千三のおけの中で球を洗った。
「それは困ります」と千三は訴《うった》えるようにいった。
「豆腐代を払ったら文句がないだろ
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