それもできずにむやみと門をたたくのはいかにも厚かましいことだと考えたりした。
やっとのことで書生の声がした。
「どなた?」
「豆腐屋の青木ですが、母が急病ですからどうかちょっとおいでを願いたいんです」
「はああ――」とみょうに気のぬけた返事が聞こえた。「豆腐屋の……青木?」
「はい」
「先生は風邪気《かぜけ》でおやすみですから……どうですかうかがってみましょう」
「どうぞお願いします、急病ですから」
千三は暗い門前でしずかに耳をそばだてた、奥で碁石《ごいし》をくずす音がちゃらちゃらと聞こえる。
「なんだ、碁を打ってるのにおやすみだなんて」
こう千三は思った。とふたたび小さな窓が開いた。
「ただいま伺《うかが》います」
「ありがとうございます」と千三は思わず大きな声でいった。
「どうぞ、よろしく、ありがとうございます」
千三は一足先に家へ帰った、母はまだ正体《しょうたい》がない。
「冷えたんだから足をあたためるがいい」
こう伯父がいった。伯母はただうろうろして仏壇に灯《ひ》をともしたりしている、千三はすぐ火をおこしかけた。そこへ車の音がした。
「どうもごくろうさまで……どうぞ」
くぐりの戸をはいってきたのは手塚医師でなくて代診《だいしん》の森という男である。この森というのは、ずいぶん古くから手塚の薬局にいるが、代診として患者を往診した事はきわめてまれである、千三はいつも森が白い薬局服を着て往来でキャッチボールをやってるのを見ているのではなはだおぼつかなく思った。
「先生が風邪気《かぜけ》なんで……」
森はこういってずんずん奥へあがりこんだ、かれはその外套と帽子を車夫にわたした、それから眼鏡をちょっと鼻の上へせりあげて病人を見やった。
「どんなに悪いんですか、ああん?」
かれはお美代の腕《うで》をとって脈をしらべた。それから発病の模様を聞きながら聴診器を胸にあてたり、眼瞼《まぶた》をひっくりかえしてみたりした、その態度はいかにもおちつきはらっている。これがおりおり玄関で手塚と腕押しをしたりしゃちほこ立ちをしたり、近所の子どもをからかったりする人とは思えない。門口で車夫がしきりにせきばらいをしている、それは「寒くてたまらないからいい加減にして帰ってくれ」というかのごとく見えた。
「はあん……これは脳貧血《のうひんけつ》ですな、ああん、たいしたことはありませ
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