れねばならぬ。翁は既に一足橋を越え、向き直つて挨拶しようとして居る。その瞬間、僕は三たび言うた。
『岡田氏へ、一度行らつしやい。あなたには直ぐ御合点の行くことです』
 翁は簑を担いだまゝ、目を閉ぢてヂツと黙つて居たが、厳然と面を上げて、
『参ります。必ず参ります。では、今晩は日暮里に御厄介になることに致します』
 僕は、翁の姿が、生垣の角をまがるまで見送つて、引き返した。
 その頃、僕は頻りに日蓮の事を空想して居た。日蓮々々と世間では非常な評判だが、僕は何も知らなかつた。この夏始めて日蓮の『遺文録』と云ふものを読んで見た。僕がこの直接資料に依つて見た日蓮と云ふ男は世間でワイ/\騒ぐ日蓮とは全く面貌が違ふ。評判の『立正安国論』と云ふものは、法然坊の弾劾に過ぎない。嘗て朝廷に対して念仏宗の禁止を迫つた叡山の僧権の暴意を、そのまゝ鎌倉の新政府の門へ投げたのが、『立正安国論』だ。文中に内難外難云々の経文を抜いて※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入して置いたものを、後日元寇の兆が見えて来た時、てつきり予言が的中したものと、自瞞自欺に脱線したのが、日蓮一生の不運であつた。老後彼は身延の山中で日本軍の必敗を期待して居た。されば鎌倉の某信女から、壱岐対馬に於ける元軍の乱行を報告して来た時、日蓮は返書を与へて、それは壱岐対馬の遠島の事では無く、近い中に京鎌倉も同様の惨禍の巷になる、今の中に罪悪の鎌倉を引き上げて、この日蓮の身延の聖地へ逃げて来いと言うて居る。某信女から元軍全敗の報告が来た時、日蓮はそれを虚偽だと言つて居る。それはこの日蓮を讒誣中傷する奸悪な流言に相違ないから信用してはならぬ、とさへ返事を書いて居る。然れば元寇の全滅が確実とわかつた時の日蓮の心情如何。――多年の焦慮、心身の破壊、遂に山を下りて東海道を湯治の途に就いた。武蔵国の海岸をトボ/\たどる時、最早や馬上に堪へ得ずして、土地の郷士池上某の館に寝込んで了つた。その遺跡が今の本門寺だ。僕は日蓮が六十一歳、大に大懺悔の時機に到着して居たと思ふ。惜い哉、彼は大脱皮を果たさずして死んで了つた。僕が日蓮を思うて居る時、いつの間にか田中翁の顔に変つて了ふ。日蓮が最後の疲労を空想する時、直訴当時の田中翁の姿が自然に浮ぶ。――今翁を見送つて家路をたどりつつ、僕はまたおのづからこの二人のことを一つにして思つた。
 今翁の日記を開いて、この前後の記事を少しく抄出す。
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八月十三日。暴風怒濤起る。前十時より十一時。
八月十四日。野木村野渡に泊。此日、米五俵割麦一俵を買取りて谷中に通知す。
十六日。谷中に入。恵下野にて避難人に面会。
二十三日。古河町出立、日暮里に来る。泊。床上尺余浸水。
二十四日。今朝逸見氏御夫婦と、岡田氏へ行けり。
二十五日。岡田神呼吸を訪ふ。

十二月十七日。朝、利根川の北岸邑楽郡千江田村の江口を出でて、川俣村の停車場に至る。途中暴風西より急に吹き荒して、歩行危し。道路は近日泥土を以て普請したるばかりにて、下駄の歯立たぬ所あり。杖さへ烈風に奪はれんとす。笠も吹き去らるゝ恐あり、手早く脱ぎて、予を送り来れる人夫に託す。忽ちに風また一層烈しく来りて予を倒さんとするにぞ、下駄を捨てゝ足袋はだしになりたるに、態度一変、如何なる烈風も却て面白くなり、弱者忽ち強者と化し、風に向て詩歌すら朗吟し、田圃に布ける水害後の泥土の、寧ろ作物の為め天然の肥料たるなどを見分しつゝ、心中窃に喜ぶ所あり。倒れ流れたる村民の悲哀を思うて、喜憂交々多し。洪水後の悲惨の中、回復の道の一端を見る。人生の事、誠に心底の決定に在り。
十二月十八日。昨日、日暮里金杉逸見斧吉氏へ来泊。今日クリスマス。
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    食前の祷
 天の父母、我が父母を生み、我が父母、神の命によりて我を孕み我を産めり。肌と乳とを以て我を育せり。其の愛、神の如し。また天地の如し。我之を受けて恩とせず、其心また神の如し。
 我れ水火を識別するに及で、父母我が飲食を斟酌す。此頃になりては、父母また神の如くならず。我亦た食慾を覚ゆ。
 我やゝ長ずるに及で我が飲食を制す。我れ壮年に及で父母の制裁に安んぜず。或は暴飲暴食、時に病を受く。此時に当り、身を破り人道に反き、多く罪悪に陥る。陥りて後ち悔ゆ。其悔や厚く而も改むるに至らず。後ち大に悔いて大に改むるも、年已に遅し。
 晩年に及で、知友の力ある誡告によりて、終に全く過を改むるに急なり。而して後はじめて神に仕へ、神より食を受くるの道を知り、食するものは皆な神より賜はるものたるを明かにさとりたり。こゝに数年の実行を践んで、いよ/\神の為に働くものは神より食を受くるなりと信ぜり。今日の働は今日の食に充つ。――
[#ここで字下げ終わり]
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十二月二十八日。日暮里逸見氏にて、岡田霊に逢ふ。是れ予が三十七年春神田青年会館の演説に於て学生に告げたる予言に応ふるの思あり。果して然らん。
 夜、古河町に帰着。
二十九日。古河町及野渡の白米商に代金皆済。
[#ここで字下げ終わり]
 この岡田虎二郎と云ふ人に逢つたと云ふ一事は、田中翁の生涯に取つて、極めて大切な事であつたと僕は見る。この人は僕自身に取ても実に再生の恩師であるが、僕にはこの人を語る力が無い。この人の名の語られる時が来るであらう。語る人が出るであらう。

   臨終

 翁は山川視察の途次、大正二年八月三日、下野国足利郡吾妻村字下羽田なる庭田清四郎と云へる農家で、遂に病床の人となつた。
 君よ。言ひたい事は河の如く際限無いが、一切を棄てゝ直にその日を語る。
 九月四日、晴朗な初秋の朝空、僕は翁の顔をのぞき込んで朝の挨拶をした。
『如何です』
 翁は枕に就いたまゝ軽く首肯いたが、やがて、
『これからの日本の乱れ――』
 かう言ひながら眉の間に深い谷の如き皺を刻んで、全身やゝ久しく痙攣するばかりの悩み。
 時は正午、日はうらゝかに輝いて、庭上の草叢には虫が鳴いて居る。
 翁は起きると言ふ。僕は静かに抱き起したまゝ殆ど身も触るばかり背後に坐つて守つて居た。夫人の勝子六十何歳、団扇を取つて前へ廻つて、ヂツと良人の面を見つめて軽く扇いで居る。
 翁は端然と大胡坐をかいて、頭を上げて、全身の力を注いで、強い呼吸を始めた。五回六回七回――十回ばかりと思ふ時、「ウーン」と一声長く響いたまゝ――
 瞬きもせずに見つめて居た勝子夫人が、
『お仕舞になりました』
と、しとやかに告げた。
 翁が所持の遺品と言うては、菅の小笠に頭陀袋のみ。翌晩遺骸の前に親戚の人達が円く坐つて、頭陀袋の紐を解いた。
 小形の新約全書。日記帳。鼻紙少々。
 僕は取り敢へず日記帳を押し戴いて、先づ絶筆の頁を開けて見た。
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「八月二日。悪魔を退くる力なきは、其身も亦悪魔なればなり。已に業に其身悪魔にして悪魔を退けんは難し。茲に於てか懺悔洗礼を要す」
[#ここで字下げ終わり]
 享年七十又三。
[#地から1字上げ]〔『中央公論』昭八・九〕



底本:「近代日本思想大系 10 木下尚江集」筑摩書房
   1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論」
   1933(昭和8)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2006年7月24日作成
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