翁の目に映つたかと想像することは、一つの興味深き問題だ。若し議会に於ける翁の演説を読んだ人は、翁の性格面貌を胸裡に描くことが出来る。僕は今、基督を見た後の田中翁を説くに当り、それを一層深く君に理解して貰ひたい為めに、翁の素性素質に就て、尚ほ少しく話して見たい。
翁の故郷は下野安蘇郡の小中と云ふ所で、祖父以来の名主の家であつた。翁の自叙伝の中に幼少時代の事が書いてある。
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「予が幼時の剛情は、母に心配をかけしこと幾何ぞ。五歳の時、或雨の夜の事なりき。予、奇怪なる人形の顔を描きて、傲顔に下僕に示せしに、彼冷然として『余りお上手ではありません』と笑へり。己れ不埒の奴、然らば汝上手に書き見せよと、筆紙を取りて迫れば、下僕深く己が失礼を謝して、赦されんことを乞ふも、予更に聴《ゆ》るさず、剛情殆ど度に過ぎたり。今まで黙視し居たる母は、此時頻りに予を宥めたれど、予頑として之を用ゐざりしかば、終に戸外に逐出し、戦慄泣き叫ぶ予をして、夜雨に曝さしむること二時間余に及べり。母の刑罰、真底心を刺して、誠に悔悟の念を起さしめぬ。思ふに予をして永く下虐の念を断たしめたるもの、誠に慈母薫陶の賜なり」
「予生来口訥にして且つ記憶力に乏しかりき。赤尾小四郎(白河浪士)予の為に試筆の手本を書す。『日長風暖柳青々』――幾度教へらるゝも、予遂に此の読方を記憶すること能はず。地方の俗として、児童試筆をなす時は、之を親族に献じて賞銭を受く。然れ共予は是を読ましめられんことを恐れ、賞銭を顧みずして窃に之を台所へ投げ込みたり。是れ予が七歳の時なり。去れば予も自ら発憤して独り窃に富士浅間を信仰し、厳冬堅氷を砕き水浴をとりて、記憶力を強からしめたまへと祈れり。五十年後の今日、予が猶ほリウマチスの病に困しむもの、幼時厳冬の水浴に原因せるに非ざるか。」
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翁が十九歳の時、父富蔵は割元に進み、翁は父に継で名主となつた。この時代の事が自叙伝に書いてある。
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「予は又此頃より大に農業に勉めたり。実に当時の勉強は非常にして、他人に比ぶれば、毎反二斗の余収を得たり。右手には鍬瘤満ち、鎌創満ちて其痕今尚ほ歴然たり。」
「さりながら農の利潤は極めて僅少にして、是は誠に粒々辛苦の汗のみなれば、終に藍玉商とならんと企てたり。父曰く、汝の職苟も名主たり、然るに商となりて錙銖を計らんとするは何ぞやと。然れ共いつかな聴入れず。日課を左の如く定めたり。
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一、朝飯前必ず草一荷を刈る事。
一、朝飯後には藍ねせ小屋に入り、凡二時間商用に従ふ事。
一、右終りて寺入りせる小児等に手習を授くる事。
一、夕飯後また藍ねせ小屋を見廻り、夜に入りて、寺院に会して朋友と漢籍の温習をなす事。
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藍玉の原料仕入は、毎年残暑の頃にして、前後三十日許は日夜非常の運動なり。一日近村に原料を集む。炎熱焼くが如くにして、沿道たま/\瓜を鬻ぐ。予乃ち食はんと欲して其価を問へば、曰く五十文なりと。(当時米価の廉なるに反して、瓜西瓜などは非常に高し)予や此日未だ一銭をも儲けざる為に、五十文の銭を惜むこと甚しく、遂に買はずして去れり。思ふに是れ父が所謂商人根性に陥れるものならん。然れども此の如くにして拮据経営、三年にして三百両を儲け得たり。」
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世間では、翁の鉱毒運動を佐倉宗吾と並べて語るものがあるが、宗吾の農民運動と並称すべき翁の行動は、既に二十歳の名主時代に一度やつて居る。六角越前守と云ふ幕府の高家が、野州の幾個村を領して居て、翁もこの六角家領内の名主であつた。この六角家の弊政を改革して、農民の痛苦を救ふと云ふ相談が領内有志の間に盛になり、当時若年の翁はその総代となつて奔走した。この運動だけでも、実に無尽の興味ある物語になるのだが、一切略して、こゝにはその最後の牢獄生活の一節を自叙伝中から抜いて君の一読を煩はす。
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「予が封鎖されたる牢獄と云ふは、其広さ僅に三尺立方にして床に穴を穿つて大小便を兼ねしめるが如き、其の窮屈さ能く言語の尽くし得る所にあらず。若し体の伸びを取らんとする時は、先づ両手を床に突き、臀を立てゝ、虎の怒るが如き状をなさざるべからず。また足の伸びを取らんとする時は、先づ仰向きに倒れ、足を天井に反らして、恰も獅子の狂ふが如き状をなさゞるべからず。去りながら入牢中の困難は啻に此に止まらず。予が如き入獄者の容易に毒殺せらるゝ例は、其当時珍らしからぬ事――予は実に大事を抱ける身なり。若し毒手にかゝりて空しく斃るゝ事あらんには、予は死して瞑する能はざるなり。一念こゝに至りて煩悶やる方なく、断じて獄食をなさじとの決心を起し、庄左衛門と云へる同志が二本の鰹節を杖とも柱とも頼みて、生命を一縷の間に繋ぐこと三十日に及びぬ。」
「在獄すでに十個月と二十日。第四回の訟廷は開かれて、左の如き判決を受けぬ。即ち予は、
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『領分を騒がし、身分柄にも有るまじき容易ならざる企を起し、僣越の建白をなせしは、不届の至なるに依り、厳重に仕置申付くべきの処、格別の御慈悲を以て、一家残らず領分永の追放を申付くるもの也。』
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と申渡を受け――此に於て一件全く落着を告げたるが、此事件の起りてより前後五年の久しきに亙り、村々名主等苟も此事件に関係あるもの、其間の運動費に巨額の金銭を投じたれば、落着後或は田畑を売り或は家屋敷を売り、妻子眷属また為めに離散するの惨状を見るに至れり。」
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翁が六角の獄舎を出て見れば、世は既に明治二年と云ふ新時代になつて居た。二十九歳。領内追放の判決に従て、一細流を距てた隣村、井伊掃部頭の飛び領地堀米村の地蔵堂に閑居して、暫くは村の小児等に手習算術など教へて居たが、勉学の雄志に駆られて東京へ出た。それから妙な因縁で、翌三年に一小吏となつて奥羽の山奥花輪と云ふ所へ赴任したが、こゝで図らず同僚殺人の嫌疑を受けて、四ヶ年に亙る惨酷な牢獄生活を嘗めた。
君よ。たとひ明治時代とはいへ、法律は尚ほ拷問取調の時代であつたことを念頭に置いて呉れ。翁の自筆の文章から、当時拷問の実状を話して見たい。
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「――予は再び口を開き、弾正台は今尚ほ隣県山形にあり。(当時弾正台と云ふ巡廻裁判があつたのだ)今一たび此の審問を受けたし、何卒片時も早く御計らひ下されたしと願ひたるに、聴訟吏は何思ひけん。忽ち赫と怒り、せき込み、直に拷問に掛けたり。疑の点を糺すにはあらで、無法にも拷問の器械をば用ひたり。其は算盤責めと云うて、木を以て製し、仰向に歯を並べたる上に、膝をまくりて坐せしめ、膝の上に重量五貫目の角石を三つ積み重ね、側より獄吏手を以て之を揺り動かす。脛はミリミリ破る。予は大喝『何故拷尋の必要ある』と。石は取り除けられぬ。痛みは反動して、脛を持ち去らるゝが如し。漸く獄吏に引立てられて獄に帰り、案外なる無法の処置に呆れたり。」
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始め、花輪支庁から足にはカセを打たれ、高手小手に縛められ、五十里の山路を四日、牢籠に封じられたるまゝ、江刺県の本庁へ護送された時、その中間に上下八里の七時雨峠と云ふがある。盛岡から北を望むと、岩手姫神両嶽の間に横はる高原の奥に、サヾエ貝を伏せたる如く尖つた峰が見える。こゝを越す時の翁の歌がある。
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後ろ手を負はせられつゝ七時雨
しぐれの涙掩ふ袖もなし
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この奥州の寒地に於ける翁が獄裡生活の一片を、自叙伝の自筆草稿より抜抄す。
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「さて、此地の寒気は、人も知る如く、人並みの衣服を纏へりとも、肌刺されて耳鼻そがるゝばかりなるに、冬の支度の乏しきに寒気俄に速に進み来り、故郷は山川遠く百五十里を隔てゝ運輸開けず、県庁の御用物すらに二個月に渉りて往返せる程なれば、衣類を故郷より取寄せんこと、囚人の身として迚も迚も覚束なく、また間に合ひもせぬ気候の切迫、いかゞはせんと案じわづらひける折柄、偶々囚人の中に赤痢を病みて斃れたる人ありしかば、獄丁に請ひて、死者の着せし衣類を貰ひ受けて、僅に寒気を凌ぎけり。此年、此獄中の越年者中、凍死せる者四人ありき。」
「獄中に書籍の差入もなく、只だ黙念するのみなれば、予は記憶力乏しきより難儀に至る事少なからざれば、茲に記憶の工風凝らして一種の発明せしものあり。此事長ければ略すと云へども、要は只だ専門と云ふに外ならず。他の事は忘れよ、予が記憶乏敷性来にて、二課以上を兼ぬるは過りなりと。故に予は出獄以来、何事も兼ぬる事をば避けて為さゞるなり。」
「予は又た幼年の頃よりドモリにて、談話と喧嘩の区別なく、議論も常に喧嘩と同一に聴取られて、其身を禍ひすること多ければ、せめては少しく弁舌ドモらざる迄の研究をせばやと思ひしに、偶々中村敬宇が訳書西国立志編の文章、舌頭に上り易きを幸とし、一語邁返、舌頭錬磨、研究殆ど年余、他日獄を出でて人に接し、始めて其功の著しきを知れり。」
「明治七年四月、一日突然呼出だされぬ。県令島惟清(此時県の併合ありて岩手県)厳然訟廷に現はれ予に申渡す事ありとて、
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『其方儀、明治四年四月某日以来、江刺県大属木村新八郎暗殺の嫌疑を以、入獄申付吟味中に候処、此度証人等申立により、其方の嫌疑は氷解せり、爾来取調に及ばず、今日無罪放免を沙汰す。』
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入獄三十六ヶ月と二十日なり。」
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かくて三十四歳、青天白日の身となりて、久々にて故郷へ帰つて見れば、母はこの三月九日に亡き人の籍に入つて居た。翁に取て如何ばかり悔恨の痛事であつたことぞ。
君よ。僕は田中翁が一身を政治運動に投じた動機に就て、君の深き理解を求める為め、自叙伝の草稿からその一二節を抜書きする。
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「明治八年、正造、隣村酒屋の番頭となり、家族及親戚朋友の為に自ら模範者となり、樽拾ひまでに尽力せり。一日、夏天、黒雲低く暴雨来らんとす。馬に石灰を積みたる馬丁、店頭に銅貨二銭を投じて酒を出せよと叫ぶ。正造其馬を見れば、背に汗して淋漓たり。正造おもへらく、今雨来らば此馬や病気せんに、憎むべき馬丁よと。依て汝は何人の雇人なりやと問ふ。馬丁答へて、此方は足利郡稲岡村武井の作方奉公人なりと。正造更に、汝の名を言へ、汝は、馬は主人のなれば、今将に雨降らんとするに不拘酒を呑まんとす。馬の汗かきたるを知らざるか、汗かきたる背に雨をうたせば馬は忽ち病気せん。主人の荷、主人の馬、汝之を愛せざるか。明日主人に、此旨を通ずべし、と罵りければ、馬丁の恐怖一方ならず、二銭の銭を取戻して、酒を呑まずに馬に鞭打ちて出て行きける。偖て此話の広く伝はりて、正造は酒屋の番頭には不適当なりとの誹謗攻撃至らざるなく、終に主人茂平も正造に暇を出すの都合とはなれり――」
「十年、西南戦乱に伴ふ紙幣濫発の事あり。予思へらく、物価必ず騰貴せんと。乃ち十年前六角家事件にて貧困せる正義派の疲弊を回復せん為め、勧めて田畑を買入れしめんとす。皆な冷笑して曰く、正造既に産を破つて且つ世事に疎し、酒屋の番頭を勤むる二年、僅に差引勘定を学べるに過ぎず、彼が経済の空論信ずるに足らずと。是に於て予は自ら成敗を試みて朋友に示さんと欲し、父妻に謀て、土蔵納屋を始め、父祖伝来のガラクタ道具を売却し、姉妹の財をも借り加へて僅に五百両にまとめ、病床に在て徐々に近傍の田畑を買入れたり。未だ数月ならずして地価は俄に上騰し、二倍となり四倍となり六倍七倍となり、遂に十倍以上となりて、容易に三千余円を儲け、以て父祖の財産を復し得たり。父祖の財産復旧す。予思へらく、普通脳力を有する者ならんには、一方に営利事業にたづさはり、一方に政治の事に奔走するを得べきも、如何せん予が脳力偏僻にして之に堪へず。如かず、一刀両断、一身一家の利益を抛つて政治改良の事に専らならんには
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