にして思つた。
 今翁の日記を開いて、この前後の記事を少しく抄出す。
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八月十三日。暴風怒濤起る。前十時より十一時。
八月十四日。野木村野渡に泊。此日、米五俵割麦一俵を買取りて谷中に通知す。
十六日。谷中に入。恵下野にて避難人に面会。
二十三日。古河町出立、日暮里に来る。泊。床上尺余浸水。
二十四日。今朝逸見氏御夫婦と、岡田氏へ行けり。
二十五日。岡田神呼吸を訪ふ。

十二月十七日。朝、利根川の北岸邑楽郡千江田村の江口を出でて、川俣村の停車場に至る。途中暴風西より急に吹き荒して、歩行危し。道路は近日泥土を以て普請したるばかりにて、下駄の歯立たぬ所あり。杖さへ烈風に奪はれんとす。笠も吹き去らるゝ恐あり、手早く脱ぎて、予を送り来れる人夫に託す。忽ちに風また一層烈しく来りて予を倒さんとするにぞ、下駄を捨てゝ足袋はだしになりたるに、態度一変、如何なる烈風も却て面白くなり、弱者忽ち強者と化し、風に向て詩歌すら朗吟し、田圃に布ける水害後の泥土の、寧ろ作物の為め天然の肥料たるなどを見分しつゝ、心中窃に喜ぶ所あり。倒れ流れたる村民の悲哀を思うて、喜憂交々多し。洪水後の悲惨の中、回復の道の一端を見る。人生の事、誠に心底の決定に在り。
十二月十八日。昨日、日暮里金杉逸見斧吉氏へ来泊。今日クリスマス。
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    食前の祷
 天の父母、我が父母を生み、我が父母、神の命によりて我を孕み我を産めり。肌と乳とを以て我を育せり。其の愛、神の如し。また天地の如し。我之を受けて恩とせず、其心また神の如し。
 我れ水火を識別するに及で、父母我が飲食を斟酌す。此頃になりては、父母また神の如くならず。我亦た食慾を覚ゆ。
 我やゝ長ずるに及で我が飲食を制す。我れ壮年に及で父母の制裁に安んぜず。或は暴飲暴食、時に病を受く。此時に当り、身を破り人道に反き、多く罪悪に陥る。陥りて後ち悔ゆ。其悔や厚く而も改むるに至らず。後ち大に悔いて大に改むるも、年已に遅し。
 晩年に及で、知友の力ある誡告によりて、終に全く過を改むるに急なり。而して後はじめて神に仕へ、神より食を受くるの道を知り、食するものは皆な神より賜はるものたるを明かにさとりたり。こゝに数年の実行を践んで、いよ/\神の為に働くものは神より食を受くるなりと信ぜり。今日の働は今日の食に充つ。――
[#こ
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