近年洪水の説明を始めた。東京の洪水をたゞ荒川の氾濫とのみ思ふは大間違で、つまり利根川氾濫の余勢だと云ふ結論であつた。七十の老翁、何せよ、大した元気だ。
『深呼吸と運動で、何十年のリウマチを、到頭退治てしまひました』
かう言ひながら翁は、その痛んだ方の太い腕を高く上げたり、背中へ廻したりして見せた。僕は好い機会と思つて翁に勧めた。
『岡田虎二郎氏にお逢ひになつては、どうです』
すると翁は、うるさげに顔をしかめて、
『何分、どうも、忙がしうがして――』
僕は直ぐ外の話に移つた。それから枕を出して少し休息を勧めた。翁はゴロリと障子口に横になつて、忽ちグウ/\と安らかな大鼾き。僕は団扇で蠅を追ひながら、ツク/″\この巨大な老戦士をながめた。
やがてポカリと眼を開いた翁は、物影を長く地に引いて、夏の日の傾き行く空を見て、
『や、これは寝過ごした』
と言ひながら、急ぎ起き上がつて、帰り支度にかゝる。
『お泊り下さるんぢや無いんですか』
と、晩餐の支度をして居た妻が、台所から顔を出したが、
『今日中に番町まで行つて置かぬと都合が悪るい』
かう言ひながら、袴を締めなほし、足袋をはいて、さつさと出掛けてしまふ。村外れまで見送るつもりで、僕も一所に出た。丁度、村の人達が市中の肥料を汲んで帰る時刻で、向うから車がつゞいて来る。父親や良人の車を、盲縞の仕事着に手拭で髪を包み、汗も拭はず好い血色した娘や若妻等が、勇ましげに車の後押をして来る。それを見て、翁は始めて担つて居る草簑の由来を物語つた。翁が所持の草簑は、先月三日谷中村破壊三年の記念会の折、翁からの依頼で、僕がワザ/\この村から持つて行つたのだ。この前翁が僕の村へ見えた時、丁度雨で、若い婦人達が簑笠で働いて居たその姿が如何にも元気で美くしく見えた。翁は自分もこの簑を着て見たいと心が動いたのださうである。
『所で、わしが着ると、まるで百姓一揆のやうで、余り好い恰好でねい』
かう言つて、翁は真面目な顔して笑つた。僕は覚えず噴き出して笑つた。この機会に僕は又勧めて見た。
『岡田氏へ行つて御覧になりませんか』
すると翁の顔は忽ち曇つて、
『何分、時が無くて――』
翁は岡田と云ふ人を、その頃流行の催眠術か何かの如く思つて居たらしい。僕は直ぐ別な話をしながら、小川に沿うて曲り曲り歩を進めた。何時の間にか、村界の小橋へ来た。こゝで別
前へ
次へ
全24ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング