も三日前たるべし。」
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 かう書いてある。「町村合併の諮問」が「急施を要する場合」とは如何なる三百代言でも赤面して言ひ兼ねる事だらう。この時谷中村は既に自治制が半ば破られて郡書記が派遣されて村長職務管掌と言ふことになつて居た。この職務管掌の手で十五日、即日村会開会の招集状が配達された。引き継ぎ第二の招集状が配達された。これは当時の町村制に、第二回招集状の村会は、出席議員が規定に達しなくとも、開会することが出来るとある法文を逆用し、かくの如き詐偽方法に依て、直に第二回招集状の村会と云ふことに表面を糊塗した。この日県庁からは保安課長が出張し、多数の警官で、この小さな村会を取り巻いた。村会は諮問案を否決した。けれど村会の意思などが眼中に在るのでは無い。
 六月八日、田中正造は予戒令を執行され、七月一日、藤岡町合併の事発布され、この日以後「谷中村」と云ふ名儀は法律上永く消滅することになつた。
 君よ。考へると寧ろ微笑を催したくなることがある。曾て陸奥宗光の外務大臣時代、日本の漁船が朝鮮近海で、難船した一件で、一議員が衆議院でその遭難の人数を質問した。その時たしか陸奥の下に通商局長であつた原敬が、政府委員として演壇に進み、「二十数名」と手軽く答弁して席に返らうとした。質問者もこの答弁に満足したと見えて、黙つて居たが、『議長々々』と連呼して田中正造が議席に立つた。『二十数名とは何事だ。二十数名とは何事だ』――彼は政府委員が人命を軽蔑する傲慢の態度を罵倒して、正確な遭難者の報告を要求した。原は真赤な顔して堪へて居たが、理の当然に余儀なく失言を謝し、改めて調査答弁するを約して退席した。その原が今内務大臣の椅子に坐して、僅に眉を動かせば、一県の知事が、白昼公然、この法律蹂躙の醜態を演じて恥辱ともしない。
 さて谷中の堤内には、遂に十六戸の農民が居残つた。政府は暴力を以てこの家屋を破壊することになつた。これが今も世に伝唱される「谷中村の破壊」と云ふのだ。この前後に於ける田中翁の心――蒼き淵の如き深さ、絹糸の如き細密さ、その壮厳さ、その痛ましさ、これは到底僕のやうな粗末な筆に描くことは出来ない。
 県庁からは、警察部長が警部巡査人夫の一大隊を引率して乗り込んで来た。僕は一切を略して、その戸主の名とその破壊の日取とをのみ記してこの記事を終る。
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