を買上げると云ふことは、三十八年即ち昨年の事です。然るに三十五年の洪水に堤防の切れたを幸として、堤防をこしらへずに居りました。当年まで五ヶ年。堤防がございませぬから水が這入つて作物が取れない。非常な借金をしたり艱難辛苦してやつと生活を繋いで居る。所で三十七年末に県会が谷中を買収すると云ふやうな意味の決議をした。夜分十二時頃、何を話したか秘密会で決めた。それが買収の事である。これを地方の新聞へ出した。畑は三十両、田は二十八両と云ふ値を付けた。かう云ふ値をつけて新聞に出しましたから、最早、売買が止まつてしまつた。直ぐ隣村の田地が二三百両する所へ、こんな値段で広告してしまつた。県庁で買ふことになつた地面でありますから、売買を禁じたも同然である。――斯様に多年衣食の道を妨げ金融の道を塞いで、そこで一方に、此処へ来い買つてやると云ふことを始めた。仕方が無いから人民は逃げ出すのである。逃げ出すについて、何程なりとも銭を持つて行きたい。田地を提げて逃げることも家屋敷を脊負つて逃げることも出来ないから、何程とも御授次第の銭を貰つて、他所へ行くと云ふことになつた。
 それは実に非常な有様で――昨年の八月以来、谷中村を買上げると云ふことになりますと、また一層ヒドイことをやつた。色々の商人を村へ入り込ませた。これが流言家である。先づ古道具商人を凡そ百人も村へ入れました。道具を売れ、近い中に家を打壊はされるさうだから早くお売りなさい、政府の言ふことを聴くものも聴かないものも皆な打壊はすさうだから今の中に早く道具を売れ――かう言つて運動する。屋敷の木を売れ。鶏も用が無からうから売れ。船も此処に居ないとなれば不用だらうから売れ――種々な商人を何百人も入り込ませて、無智の人民を狂乱させてしまつた。それから村の中へ七人の悪党を入れて、非常な流言を放たせて、人民を騒がせて歩く。さうなくともこの三四年、人民は借金が出来て居る。そこで其の金貸へ手を廻はして、非常な催促をさせる。三百代言を入れて、さア寄越せと云ふ。田地を抵当にしようとしても取り手が無い。売らうとしても買手が無い。金融を塞ぎ、食物を奪ひ、この村に堤防は永世築かないと云ふ公文書まで発して、人を迷はす。人民が発狂するのも無理はない。殆ど狂人のやうになつて村を逃出す。逃出すについて、何程でも銭が欲しいと云ふ所へ、僅の銭を与へるに過ぎぬ。
 諸君如
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