旅なる人を思うて
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君が行く方も知らねど、夕されば、空のかただに、ながめぬるかな。
夕間暮、軒の草葉の、そよぐさへ、君がたよりの、風と見るかな。
    ○
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七夕
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一と年に、今夜ばかりは、渡守、天の川舟、はやも漕がなん。
    ○
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不図目ざめけるに、隈なき月光、玻璃窓より差入りで、枕を照らす。
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草枕、露も涙も、あらはなる、寝覚め恥づかし、武蔵野の月。
    ○
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九月八日、我が生まれし日なれば、故郷の空思ひ乱れて。
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故郷は、荒れまさるとも、菊の花、今日は忘れず、咲きにほふらん。
    ○
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控訴公判期日の近く迫りける頃、戯に。
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故郷に、誰れ帰るとて、立田姫、紅葉の錦、織りて待つらん。
    ○
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十月五日、公判始めて開かるゝ日、東京控訴院の監房にて、母の身をのみ思ひ耽りつゝ、
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言葉にも、顔にも出さで、たらちねは、東の空や、眺めたまはん。
    ○
同じくは、露に濡れても、きりぎりす、野辺に鳴く音を、尋ねてしかな。
    ○
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木葉散りて、八重洲橋上の行人、窓より見ゆ。
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木の葉散りて、居ながら見ゆる人影を、世に珍らしく思ひぬるかな。
今はまた、春のかたみと、何を見ん。しぐれの雨に、柳散りけり。
    ○
夜もすがら、しぐるる空を、玉水の、絶えぬ軒端の音に聞くかな。
    ○
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監房の造作、船室の如しなど、人々笑ひ興じければ、
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思ふとも、空吹く風の、甲斐なくて、浪にまかする、船の道かな。
    ○
久方の、空飛ぶ鳥も、迷はぬを、道なき世とは誰か言ひけん。
    ○
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十一月十八日、公判。雨降る。
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今日しもぞ、干さんと待ちし我が袖を、時雨の雨に、またしぼるかな。
    ○
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同じき日の夕暮、控訴院よりの帰途、馬車の内にて。
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濡るるとも、いとひはせじな、夕時雨、明日の晴れなん、空をたのめば。
    ○
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十二月七日、判決の日、暁天の月に対して。
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明日の夜は、晴れて待ち見ん、うきふしも、なれしむとやの、窓の月影。
    ○
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同じき朝、今日を限りの寝具を収むるとて。
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しかすがに、なれし枕ぞ惜まるる。幾夜うき寝の、今朝の別れ路。
    ○
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無罪の判決を受けて監獄に帰り、別房に移されて、裁判所より出獄の通知を待つ。夕方迎へられて知人の家に赴く、夜半目覚めて枕頭の灯影に驚く。
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有明の、なれぬ灯影に驚きて、暫しは迷ふ、夢かうつつか。
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底本:「近代日本思想大系10 木下尚江集」筑摩書房
   1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2006年9月18日公開
青空文庫作成ファイル:
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