けき春は、旅衣、うすひの関も、知らで過ぎけり。
○
[#ここから3字下げ]
六日七日両夜、上州松井田泊。
[#ここから1字下げ]
のどかなる春の山辺も、夕暮の、鐘の音こそ、さびしかりけれ。
○
[#ここから3字下げ]
八日夜、武州本庄泊。翌くる朝顧みて、浅間嶽の独り高く雲表に聳ゆるを遙に望み。
[#ここから1字下げ]
浅間山、峯の白雪、まだ深し。春は、碓氷の関や隔つる。
○
[#ここから3字下げ]
途上即興
[#ここから1字下げ]
ささ濁る、里の小川に袖濡れて、誰が妹ならむ、根芹つむなり。
ほのかにも、去年の面影残るかな。霞かくれの遠山の雪。
若草の野辺に打ち連れ、憂き今日の、春を昔に、語る日もがな。
浅緑、春の野もせと一とつらの、川瀬のどかに、白帆行くなり。
○
[#ここから3字下げ]
九日午時過ぐる頃、東京着、直ちに鍛冶橋監獄に入る。
[#ここから1字下げ]
よそにのみ、都の春を、ながめつつ、雪ふる郷の、空ぞ恋しき。
○
[#ここから3字下げ]
梅の花咲く頃
[#ここから1字下げ]
払はでぞ、ながめしなまし、白雪の、降るもおかしき、梅のあけぼの。
○
誰が宿の、春は訪ふらん。わび人の、籬の外の、鴬の声。
○
[#ここから3字下げ]
帰雁
[#ここから1字下げ]
夜さへも、とまらで帰る、かりがねは、故郷いかに恋しかるらん。
○
[#ここから3字下げ]
桜の頃、或夜、風はげしく吹きければ。
[#ここから1字下げ]
嵐こそ、うしろめたけれ。桜花、行きて見るべき、我身ならねば。
○
[#ここから3字下げ]
故山を思うて
[#ここから1字下げ]
春おそき、片山里の桜花、誰を待ち得て、咲かんとすらん。
○
[#ここから3字下げ]
食膳の蕨を見て
[#ここから1字下げ]
萌え出づる蕨を見れば、山人も、捨てし浮世の、春ぞ恋しき。
○
[#ここから3字下げ]
運動場にて、落花を拾ひて、袖に収めけるを看守の見て咎めければ、二首。
[#ここから1字下げ]
香をだにも、袖にとゞめて、あかず散る、花の夕の、思ひ出にせん。
またも来て、訪ふ宿ならぬ花なれば、散り行く影の、なほぞ恋しき。
○
[#ここから3字下げ]
この年、三月に閏ありと聞きければ、
[#ここから1字下げ]
常よりも、のどけき春と
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング