遙に洋笛の声、枕に響く。我家に程近き松本音楽隊の練習なるが如し。
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ふくる夜の、笛の遠音を、心あてに、家路の空を、思ひこそやれ。
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鼠の足音に驚きて眠醒めたり。鼠の来るべき所ならねば、疲れし身の夢なりしかと、自ら思ひ惑ひしが、明くる朝起きて着換へんと棚の上なる新衣を披けば、襟の番号札破れて、鼠の歯の痕、あざやかに残れり。夜半の足音は夢にてはあらざりけり。此処にては、衣の襟に一々番号札を縫ひ付け、姓名を言はずして第何番と呼ぶこと、官署の規則なり。我が身、針持つこと拙く、番号札縫ひつくること煩はしければ、飯粒もて糊付け置きけるに、鼠の如何にしてかその香を嗅ぎつけゝん、忍び来りて、鋭き歯もてその糊を剥ぎ取りけるなり。驚愕するものから、且つは興深きことに覚え、晩食の飯粒わざと残し置きて、窃かに鼠の音づれを待ちわぶる身となりぬ。
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木枕の、わびしき宿も、君来やと、待つに、物をば思はざりけり。
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墻外虫声切々
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立ち出でて聞くことならぬ、人の身を、虫もあはれと、鳴きまさるらん。
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官が給与の鼠紙を台に、自ら携へたる白紙を撚りて文字となし、麦飯の糊もて、歌など張り付け、余念もなく憂き日を忘れて過ぎけるに、一日、室内点検の獄吏、無断に持ち去りて棄てたりければ、愛惜言はん方なく、
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こゝにして、死なば、かたみとなぐさめし、我身の影の、行方知らずも。
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荒き格子の間より、土の廊下へ飯粒一つ二つ播き与ふるに、雀の子の近く来りて啄む姿、譬へんやうなく愛らしかりしに、近頃久しく影も見えずなりければ、
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世の中は、今が稲田の秋ならん。雀の、ここら、影も見せぬは。
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墻外の古濠に水禽の鳴くをきゝて。
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夜もすがら、鴨ぞ鳴くなる。うたた寝の、蘆の枯葉に、霜やおくらん。
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房外に出でて、四方の山の白くなれるを見て。
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袖さえて、得も寝ざりしが、今朝見れば、山山白く、雪ふりにけり。
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一房を置きて隣れる吉江源次郎君より、かゝる憂
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