をサイのしゆんとして、渡良瀬川へ川幅一杯に網を張り通し、夕暮五時頃より、翌朝六七時までに、魚が百貫以上も取れました。また闇の夜などに、川や沼に大高浪押し来り、小胆の人は大蛇かと驚きましたが、獺《かはうそ》が多く子を連れて、游ぎあるくのでござりました。渡良瀬川、淵と名のつきましたところは、平時にも水が二丈や三丈はありました。鯉など年中はねて居りました。――只今では毒鉱土砂沈澱し、河底埋塞の為め、平水の節は、名のつきました所も八尺か九尺しかありません。浅くなりました故、魚は居りません。」
「小満四月、中の節。山林田圃などには、蛇が多く居りました。蛇の種類も色々ありました。山かゞしと云ふが、あの縞蛇と云ふがあり、地もぐりと云ふがあり、青大将と云ふがあり、又かなめと云ふがありましたが、只今鉱毒地には更に御座なく候と申しても宜敷位でござります。また畑の境界などには、うつ木と申しまする樹を仕立つ。此木は根が格別ふえませぬ故、境木などに至極宜敷ござります。此木に卯の花と申す真白な花が咲き乱れました。此花の頃は時鳥《ほとゝぎす》があちこち啼いて、飛びちがひましたものでござりますが、只今では、虫や蜘蛛が鉱毒の為め居りませぬ故か、一と声も聞きませぬ。卯の花も咲きませぬ。蟷螂《かまきり》や、けら、百足《むかで》、蜂、蜘蛛等が夥《おびたゞ》しく居りました。土蜘蛛と申しまして木の根や垣根などに巣の袋をかけて置きましたが、鉱毒地には、只今一切居りませぬ。」
「芒種五月の節に相成りますると、野にも川にも螢が夥しく居りまして子守や子供衆は日の暮を待ち兼ねて螢狩りに行きましたものでござりますが、鉱毒の為め少しも見えませぬ。此節に到りますると、大麦は丈五尺位ありました。並みの馬につけますには、余程高く付けませぬでは、穂が引きずりました。一反で三石四五升位とれました。小麦も丈が四尺余もありました。一反で二石五斗位は取れました。菜種も丈が六尺以上ありました。一反で一石八九升まで取れました。朝鮮菜と申しまするは、丈が七尺以上ありました。一反二石以上とれました。辛子は丈が八尺より九尺位ありました。一反で一石以上とれました。下野国足利郡吾妻村大字小羽田は、関東にても有名の肥土でありましたが、只今は鉱毒被害の為め、何も生えませぬ。」
「処暑七月の中の節。土用明けてから十日もたちますると渡良瀬川、朝日出づる頃よりし
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