えた。小造りな、引締つた無病さうな体格の人で、言葉の少ない、気象の勝れた、エライ婦人であつた。幸徳は生れて間もなく父に死に別れたので、お母さんの手一つに育てられたといふことだ。お母さんは到頭故郷の土佐へ帰つて行かれた。
 明日出発といふ日、角筈の幸徳の家へ行つて見ると、来客の絶え間が無い。幸徳は僕を引つ張つて櫟林へ行つた。切り株に腰をおろして、誰に遠慮もなく腹蔵なく語り合つた。
 アヽ、何といふ距離ぞ。
 一つの言葉が二人の間に置かれてある。「権力否定」といふ一つの言葉が、二人の間に置かれてある。幸徳は無政府主義の理論で説く。僕は神の愛でいふ。やがて話が互の一身の上に落ちた。僕はいうた。
『かうした道を行く身に取つて、年取つた母を連れて居るといふことは、如何にも心苦しい』
『うム――』
と幸徳も軽くうなづいたが、暫くして顔をあげ、
『しかし、君。母でも無かつたら、何をする気も出なからう』
 かういつて、風の寒い武蔵野の暮れ行く空を、茫然とながめて居た。翌日、多勢の友人同志に見送られて、横浜を立つた。

      七

 戦争後の戒厳令時代。
 よく「家宅捜索」が来た。
 予審判事が警官を指揮して、母の病室へまで踏み込み、枕元なる箪笥の中、棚の隅々、無遠慮に取り乱して物を探す――母は白髪頭を枕につけたまゝ、目を閉ぢて、眉一つ動かさない。捜索隊が去つてしまつても、何一つ口にしない。まるで、何事があつたかも知らぬやうな顔をして居て呉れた。
 平民社解散の後、僕は石川三四郎君を勧めて「新紀元社」を樹《た》てた。キリスト教社会主義とでも、いへばいへよう。徳富蘆花君を引つ張りだした。安部君も助けてくれた。田添鉄二君といふ青年哲人が助けてくれた。月刊雑誌の外に、日曜日の講演会を開いた。
 三十九年の五月六日、これは日曜日であつた。母の脈搏が変つたから外出を見合はすやうにといふ妻の注意に、午後の講演会を断つて、母の側について居た。枕頭には妻が居る。裾の方には、医者が居て呉れた。日が障子に当つて、明るい静かな真昼時、母は眠つたやうに六十八年の呼吸を引き取つた。
 僕の十九の学生時代に、父は死んだ。父の目には、こんな子にさへ一縷の希望を繋いで死んで行つてくれた。けれど母には、一日の喜びも与へず、苦労に苦労の一生を終らせてしまつた。
 母の跡片づけも済んで、さてこれから新鋭の気を以て、改めて仕事にかゝるのだと思つた時、どこからとも知らず、一つの声が響いた。
『誰のために――』
 驚いて目を開くと、まるで夢のさめたやう。
 涙が身の底から、滝のやうにわいて、止め度が無い。
 連日引籠つて思案に暮れた末、思ひ切つて新紀元社へ行つて石川君に話した。
『僕は、もう駄目になつた』
『然うか』
というて、年少の石川君は、さま/″\慰めてくれた。
 差当り北海道の遊説を中止せねばならぬ。
 僕は夏季の遊説をやつて居た。一昨年は上州から信州へ行き、昨年は奥羽へ行き、今年はいさゝか大規模に北海道を廻る予定で、現に石川君の机の上には、同志達から打合せの手紙が、幾通も来て居る。
 一切「謝罪」――
 幸徳は予定より早く帰つて来た。四谷の小泉三申君の宅へ、彼を尋ねて行つて見ると、持つて来たのであらう、バクニンの大きな額面が、玄関の壁に立てかけてあつた。彼は、旧同志を糾合して新運動に着手する心算で、日刊新聞発刊の計画さへも進んで居た。
 僕は世上一切の関係から離れ、孤独の身となつて山へ行つた。

      八

 早くも二三星霜。
「赤旗事件」で、堺君等が千葉の監獄へ送られたと聞くや、土佐に静養して居た幸徳は上京した。その頃、僕の三河島の草屋を、平民社時代の人達が尋ねて来て切りに幸徳を攻撃して聞かす。彼が千代子夫人を離別して、新しい婦人と同棲して居るといふのだ。それで僕に忠告の役を勤めよといふのだ。僕は黙つて居た。
 或日、名古屋のお千代さんの姉さんが見えて、一通の手紙を僕の前へ置いた。幸徳からお千代さんへの郵書で、文句は長いが、要するに「自分は菅野といふ婦人と恋愛に落ちたから、今後御身とは兄妹の関係に過ぎない」といふ宣言だ。
『妹は、泣いてばかり居ります――』
というて、姉さんも目を押へて居る。僕は密に幸徳の苦悩を想うた。捜し/\して幸徳の浪宅を尋ねて見ると、私服の警官が二名、門前に張り番して、訪問客を一々厳重に調べて居た。
 丁度婦人は外出中で、幸徳が一人で居た。彼は詳細に顛末を語つた。僕は目を閉ぢて聞いて居た。語り終つた彼は、一段と声を改めた。
『然し君。僕の死に水を取つて呉れるものは、お千代だよ』
 この一言に、僕は胸がカラリと晴れた。直ぐに話題を転じて、何もかも忘れて久し振りで談笑の世界に戯れた。
『またくるよ』
というて、スイと立つと、畳の上に寝そべつたまゝ幸徳は、
『好い身体だなア――』
と、さも羨ましげに見上げた。やせ枯れた僕をさへ羨むほどに、彼の肉体は破れて居た。人を避けて少し静養したいと思ふ、といふから、僕は熱心に勧めて別れた。
 間もなく湯河原から、転地の通知が来た。僕は、新約全書と碧巌録とを、小包で送つてやつた。
「牢屋で耶蘇の穴探しをしたから、今度は耶蘇の宝探しをして呉れ」と書き添へて。
 碧巌の礼だけいうて来た。後で思ふと、あの時幸徳は既に「基督抹殺論」を書き始めて居たのだ。四十三年六月一日、彼は場河原から市ヶ谷の監獄へ移つた。お千代さんが名古屋から出て来て、病弱な身で、差入物万端世話して居ると聞いた時、僕は「死に水を取つてくれるのは、お千代だよ」というた時の顔を思うた。
 歳末、お母さんが、遙々土佐から上京し、堺君に連れられて、市ヶ谷へ面会に行かれたと聞いた時、僕はツク/″\「母の慈悲力」を思うた。
 数日後、朝、新聞をひろげると、お母さんが土佐で亡くなつた記事が、大きな活字で出て居る。
 僕は直ぐに筆を執つて手紙を書いた。櫟林の会談を書いた。母に死なれた経験を書いた。わき来る感慨を、筆の走るにまかせて書いた。――一刻も早く見せたくて、東京へ行つて郵便に出した。
 幸徳から返事が来た。
『君の手紙で、思ふ存分に泣いた――』
 遺稿「基督抹殺論」は、堺君と高島米峰君の尽力で世に出た。彼は四十一歳であつた。
 丁度、早稲田大学の雄弁会から呼びに来たので、早速承諾の返事を出した。演題は、
「基督抹殺論を読む」
 君よ。妙なことには、これが僕の「演説家」生活の、最後の幕になつた。
[#地から1字上げ]〔『朝日新聞』昭八・四・一五ー二〇〕



底本:「近代日本思想大系10 木下尚江集」筑摩書房
   1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2006年9月18日公開
青空文庫作成ファイル:
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