、「書生輩の児戯」以上、実は未だ一向に注意を払つて居なかつたものだ。「禁止」次いで「告発」――世間は始めて漸く目を見張つて来た。
都下の新聞社がいづれも有罪の判決を受け、法の明文に従つて判決書の全文を各紙上に満載した時、犯罪の主体たる「宣言書」が、改めて全部判決書中に掲げられて再び紙上に現はれた時、読者は新奇の熱情に誘はれて、一字も余すまじと精読した。かうした不思議な因縁で、「社会主義」といふ記憶が電気メッキの如くに、国民の心裏に焼きつけられてしまつた。
ユニテリヤン協会では、今や「社会主義研究会」の看板を持て余ました。それを我々の方へ貰ひ受けて「社会主義協会」と塗り替へて、毎月講演会など開くことにした。三十六年の暮、日露両国の交渉が危機に迫つた時「非戦論」を発表したのも、この社会主義協会だ。
五
幸徳が中心に立つ時が来た。幸徳が「非戦論」で「万朝報」を退社したといふことは、当時の青年への一大衝動であつた。彼は同問題で一緒に進退を決した堺利彦君と二人で、数寄屋橋角の古長屋に「平民社」を新設し、「平民新聞」といふ週刊新聞を発行した。堺君といふ人と提携したことが、実に幸徳の幸福であつた。
幸徳の本領は詩人だ。彼が低く細い声で徐ろに肝胆を吐く時、一種の精気――鬼気ともいふべきものが、相手の肺腑を打つ。彼は虚弱でよく病んだ。
堺君は常識の人、事務の人、強健で快※[#「さんずい+闊」、第4水準2−79−45]、一切万事一人で忙がしく切つて廻すところに、堺君の興味があつた。堺君のゐるところには、初夏のやうな晴れやかさがあつた。
当時の青年が要求したものは、実は成形した思想などでは無かつた。彼等は混沌を渇望した。大混沌を渇望した。大混沌裏の大創造を渇望したのだ。この渦巻いてゐる若い熱ガスのために、一個の小噴火口を与へたのが、幸徳の平民新聞であつた。
嗚呼、当時の東京――
僕は、夕方尾張町の新聞社から平民社へ立寄つた。数寄屋橋角の石垣は、まだ昔のまゝに高く残つて居り、濠端には、竜のやうな老松が、鬱蒼と茂つて居た。電車は開通し始めて居たが、自動車などは夢にも無い。街頭でも家の中でも、ランプとガスだ。
母が甘い物を好んだので、平民社の直ぐ隣の塩瀬で、よくあんころもちを買つて帰つた。日比谷へ出て、芝の山内を抜け、一の橋、二の橋、中の橋を渡り、仙台坂を上
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