た。
時は日清戦争の後、支那の償金がはいつて、事業熱の勃興と共に、始めて日本に「労働問題」といふ熟語が伝はり、職工の間に組合組織が競ひ起る一方、学者思想家の間には、「社会問題」が盛んに論議される新時代であつた。
僕の入社した「毎日新聞」でも、社長の島田三郎先生が、去年の暮、旧い関係の政党を脱退して自由独立の身となり、言論文章で新機運を呼び起こさうといふ意気溌剌の折柄で、「青年」「労働者」「婦人」これが先生の三要目で、現に「青年革進会」の会長であり、たしか活版工組合の会長でもあつたやうに記憶する。
その頃、芝園橋側のユリテリヤン協会といふは、仏教、耶蘇教の自由家若くは脱走家の団体で、会長の佐治実然といふはもと本願寺派の才人、村井知至、安部磯雄などいふは、組合教会の秀才であつた。この協会の中にまた「社会主義研究会」といふのが出来て、これには協会外の人も加入して居た。幸徳もその会員の一人で、僕にも入会を勧めたが、僕は「研究会」といふやうなものは嫌ひだというて、拒絶したことを覚えて居る。
三
安部君とは、妙な所で知合ひになつた。
明治三十二年の暮だと思ふ。埼玉の県会が公娼設置の建議案を通過した。畢竟遊廓新設地の地価をあげて腹を肥やさうといふ魂胆だが、表面の理由は、日本鉄道会社大宮工場の如き、職工労働者の巣窟のために、風教衛生上、公娼設置の急務があるといふのだ。
これを聞いた大宮工場の労働組合が、憤起して反対運動の声を挙げた。島田先生も応援演説に行かれるので、僕にも同行を勧められた。その朝、大雪の降る中を上野停車場へ行つた。先生と立ちながら話して居る人を見ると、中肉中背、黒の外套に中折帽子、赭ら顔に鳩のやうな柔和な目、如何にも清高の感じのする年少紳士だ。これが早稲田の新教授安部磯雄君であつた。安部君も矢張り大宮へ行くのだ。
大宮では、かねて会場に借りて置いた劇場が、公娼派の圧迫で急に断つて来た。寺を借りようとしても、貸して呉れない。やむを得ず、長屋建ての狭い「労働倶楽部」を臨時の演説場。庭前を板で囲つて露天の傍聴席だ。
物々しき警察の警戒――屋内へまで大きな雪が舞ひ込む。聴衆は真つ白になつて、吹雪の中に立つて居た。
この一挙で公娼案は全滅した。
当時、砲兵工廠と大宮工場とは、労働運動の中心で、片山潜、高野房太郎などいふ指導者の名は、官署や会
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 尚江 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング