改めて仕事にかゝるのだと思つた時、どこからとも知らず、一つの声が響いた。
『誰のために――』
 驚いて目を開くと、まるで夢のさめたやう。
 涙が身の底から、滝のやうにわいて、止め度が無い。
 連日引籠つて思案に暮れた末、思ひ切つて新紀元社へ行つて石川君に話した。
『僕は、もう駄目になつた』
『然うか』
というて、年少の石川君は、さま/″\慰めてくれた。
 差当り北海道の遊説を中止せねばならぬ。
 僕は夏季の遊説をやつて居た。一昨年は上州から信州へ行き、昨年は奥羽へ行き、今年はいさゝか大規模に北海道を廻る予定で、現に石川君の机の上には、同志達から打合せの手紙が、幾通も来て居る。
 一切「謝罪」――
 幸徳は予定より早く帰つて来た。四谷の小泉三申君の宅へ、彼を尋ねて行つて見ると、持つて来たのであらう、バクニンの大きな額面が、玄関の壁に立てかけてあつた。彼は、旧同志を糾合して新運動に着手する心算で、日刊新聞発刊の計画さへも進んで居た。
 僕は世上一切の関係から離れ、孤独の身となつて山へ行つた。

      八

 早くも二三星霜。
「赤旗事件」で、堺君等が千葉の監獄へ送られたと聞くや、土佐に静養して居た幸徳は上京した。その頃、僕の三河島の草屋を、平民社時代の人達が尋ねて来て切りに幸徳を攻撃して聞かす。彼が千代子夫人を離別して、新しい婦人と同棲して居るといふのだ。それで僕に忠告の役を勤めよといふのだ。僕は黙つて居た。
 或日、名古屋のお千代さんの姉さんが見えて、一通の手紙を僕の前へ置いた。幸徳からお千代さんへの郵書で、文句は長いが、要するに「自分は菅野といふ婦人と恋愛に落ちたから、今後御身とは兄妹の関係に過ぎない」といふ宣言だ。
『妹は、泣いてばかり居ります――』
というて、姉さんも目を押へて居る。僕は密に幸徳の苦悩を想うた。捜し/\して幸徳の浪宅を尋ねて見ると、私服の警官が二名、門前に張り番して、訪問客を一々厳重に調べて居た。
 丁度婦人は外出中で、幸徳が一人で居た。彼は詳細に顛末を語つた。僕は目を閉ぢて聞いて居た。語り終つた彼は、一段と声を改めた。
『然し君。僕の死に水を取つて呉れるものは、お千代だよ』
 この一言に、僕は胸がカラリと晴れた。直ぐに話題を転じて、何もかも忘れて久し振りで談笑の世界に戯れた。
『またくるよ』
というて、スイと立つと、畳の上に寝そべつたまゝ
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