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「旅寝してなほ試みよをみなへし盛りの色に移り移らず
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そのあとであなたをどんな性質で、お堅いともそうでないとも、きめましょう」
とも言う。
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宿貸さば一夜は寝なんおほかたの花に移らぬ心なりとも
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薫が言ったのである。
「私を侮辱あそばすのでございますね。自分のことではございませんよ。一般的に抗議を申し上げただけでございます」
と弁は言う。こんなふうに戯れ言も薫は長くは言っていないらしく見えるのを若い女房たちは飽き足らず思っていた。
「思いやりのないことをしましたね。あなたの道をあけましょう。とりわけて私に顔をお見せにならない態度には理由のあることでしょう」
と言い、薫の立って行くのを見て、だれもが弁のようにはしゃぐ者のように思われぬかと気にする人もあった。東の高欄によりかかって、叢《くさむら》の中に夕明りを待って咲きそめる花のある植え込みを薫はながめていた。何も皆身にしむように思われる薫は、「就中断腸是秋天《なかんづくはらわたをたつはこれあきのてん》」と低い声で口ずさんでいた。先刻の人らしい衣擦《きぬず》れの音がして、中央の室《へや》から抜けてあちらへ行った。兵部卿の宮がそこへ歩いておいでになって、
「ここから今あちらへ行ったのはだれか」
と他の者に尋ねておいでになった。
「一品《いっぽん》の宮《みや》様のほうの中将さんでございます」
と答える声も御簾《みす》の中でした。おもしろくないことである、だれであろうとかりそめにもせよ好奇心の起こった人が、すぐにだれそれであると名ざしをして聞かれるではないか、とその女がかわいそうに思われ、また兵部卿の宮には皆よくお馴《な》れしていて、隠すところもなくなっているのがなんとなくうらやましい気もする薫であった。自由に接近してお行きになることができ、上手《じょうず》な技巧で誘惑をあそばされては女も負けることになるのであろう、自分にはそんなことができず、こちらの人たちとは、縁の遠いうとうとしいものになっているのが残念である。侍している人の中で、どうかして近ごろ兵部卿の宮がはげしく恋をしておいでになる人を自分のものにして、あの時に自分が苦しんだような思いを宮にもお味わわせしたい。聡明な女であれば自分のほうを愛するはずであるとは思われるが、こちらの考えどおりな心を持っているかどうかは頼みになるものでないと思われるにつけても、二条の院の女王が、宮のああした御放縦な恋愛生活を飽き足らず見て、自分の愛を頼むようになり、それを恋にまでなってはならぬ、世間の批評がうるさいと思いながら友情だけはいつも捨てぬのは珍しく聡明な態度で、自分としてはうれしいかぎりである、そんなすぐれた女性はこのおおぜいの若い女房たちの中に一人でもあるであろうか、深く接近して見ぬせいかないように思われる、物思いに寝ざめがちな慰めに恋愛の遊戯も少し習いたいと思うが、もう今は似合わしくないと薫は思った。例の氷を割られた日の西の渡殿へ、その日のようにふらふらと薫が来てしまったのも不思議であった。姫宮は夜だけ母宮の御殿のほうへおいでになるため、もうお留守になっていて、女房たちだけで月を見ると言い、渡殿に打ち解けて集まっていた。十三|絃《げん》の琴を懐しい音《ね》で弾《ひ》くのが聞こえた。人々の思いもよらぬこんな時に薫が出て来て、
「なぜ人を懊悩《おうのう》させるように琴など鳴らしていらっしゃるのですか。(遊仙窟《いうせんくつ》。耳聞猶気絶《みみにきくもなほきたえんとす》、眼見若為憐《めにみていかばかりおもしろからん》)」
こう言うのに驚いたはずであるが、少し上げた御簾《みす》をおろしなどもせず、一人は身を起こして、
「崔季珪《さいきけい》のようなお兄様がいらっしゃるかしら」
と言う。その声は中将の君といわれていた女であった。
「私は宮様の母方の叔父《おじ》なのですよ。(遊仙窟。容貌似舅潘安仁外甥《かんばせはをぢはんあんじんににたりぐわいせいなればなり》、気調如兄崔季珪小妹《きざしはあにさいきけいのごとしいもうとなればなり》)」
こんな冗談《じょうだん》を言ったあとで、
「いつものように中宮様のほうへ行っておしまいになったのでしょうね、宮様はお里住まいの間は何をしていらっしゃるのですか」
思わずこんな問いを薫は発することになった。
「どこにいらっしゃいましても、別にこれという変わったことはあそばしません。ただいつもこんなふうでお暮らしになっていらっしゃるばかり」
聞いていて美しいお身の上であると思うことで知らず知らず歎息の声の洩《も》れて出たのを、怪しむ人があるかもしれぬと思う紛らわしに、女房たちが前へ出した和琴《わごん》を、調子もそのままでかき鳴らす薫であった。律の調べは秋の季によく合うと言われるものであったから、気も入れて弾かぬ琴の音であるが、みずから感じの悪いものとは思われぬものの、長くも弾いていなかったのを、熱心に聞きいっていた人たちはかえって残り多さも出て苦しんだ。自分の母宮もこの姫宮に劣る御身分ではない、ただ后腹というわずかな違いがあっただけで朱雀《すざく》院の帝《みかど》の御待遇も、当帝の一品《いっぽん》の宮を尊重あそばすのに変わりはなかったにもかかわらず、この宮をめぐる雰囲気《ふんいき》とそれとに違ったもののあるのは不思議である。明石《あかし》の女のもたらしたものはことごとく高華なものであったとこんなことを思う続きに薫は運命が自分を置いた所はすぐれた所であるに違いない、まして女二の宮とともに一品の宮までも妻に得ていたならばどれほど輝かしい運命であったであろうと思ったのは無理なことと言わねばならない。
宮の君はここの西の対の一所を自室に賜わって住んでいた。若い女房たちが何人もいる気配《けはい》がそこにして皆月夜の庭の景色《けしき》を見ていた。そうであったあの人も浮舟らと同じ桐壺《きりつぼ》の帝《みかど》の御孫であったと薫は思い出して、
「式部卿の宮様に私を愛していただいたものなのだから」
と独言《ひとりごと》を言いその座敷の前へ行ってみた。美しい姿の童女が略服になって、二、三人縁側へ出ていたが、薫を見て晴れがましいというように中へ隠れてしまった。これが普通の所の情景であると今見て来た廊の座敷と比べて薫は思った。南の隅《すみ》の間のそばで咳《せき》払いをすると、少し年のいったような女房が出て来た。
「人知れず好意を持っている者ですなどと申せば、それはだれも言うことだとお聞きになるでしょうし、またそうした若い人たちの口|真似《まね》をすることも私にはできません。それよりも言葉でない実質的な御用に立つことはないかと捜しております」
と言うと、その女は女王にも取り次がず、賢がって、
「思いがけぬお身の上におなりあそばしましたことにつきましても、宮様がどんなにいろいろなお望みを姫君の将来にかけておいでになりましたかと思われまして、悲しゅうございます。いつも御親切に仰せくださいまして、お宮仕えにおいでになりました御非難のお言葉なども、ごもっともだと女王《にょおう》様は言っておいでになることでございますよ」
こんなことを言う。並み並みの家の娘などのように聞こえることもはばからず言う女であるといやな気のした薫は、
「もとから血族であるためというようなことでなしに、好意を持つ男として、何かの御用をお命じくだすったらうれしいだろうと思います。うとうとしくお取り次ぎでお話などをしてくださるだけでは私も尽くしたいことがお尽くしできない」
と言った。そうであったというふうに女房たちは思い、姫君を引き動かすばかりにしたはずであったから、
「松も昔の(たれをかも知る人にせん高砂《たかさご》の)と申すような孤立のたよりなさの思われます私を、血族の者とお認めくださいましておっしゃってくださいますあなたは頼もしい方に思われます」
取り次ぎの者に言うというふうにでもなしに、こういう声は若々しく愛嬌《あいきょう》があって優しい味があった。ただの女房としてであればよい感じに受け取れたであろうが、今の身になっては、すぐに人に逢ってこれだけの言葉もみずから発しなければならぬものと思うようになったかと考えるとこの人を飽き足らぬものに薫は思われた。容貌《ようぼう》も必ず艶《えん》な人であろうと思い、見たい心も覚えたが、この人がまた宮のお心を乱す原因になることであろうと思われ、絶対の信用の持てない人は相手にしたくない気にもなった。この人こそは最上の家庭に生まれ、大事がられて育った、典型的な姫君というのに不足のない人で、他に幾人《いくたり》もない身の上だったのであるが、自分として頼もしい女性と思われぬのはどうしたことであろう、僧のような父宮に育てられ、都を離れた山里で大人《おとな》になった人が姉女王にもせよ中の君にもせよ、皆完全な貴女《きじょ》になっていたではないか、このはかない性情の人、軽々しい人と今の心からは軽侮の念で見られる人も、こうしたわずかな接触で覚えさせた感じは悪いものでなかった、と薫は八の宮の姫君たちのことばかりがなつかしまれるのであった。
宇治の姫君たちとはどれもこれも恨めしい結果に終わったのであったとつくづくと思い続けていた夕方に、はかない姿でかげろう蜻蛉《とんぼ》の飛びちがうのを見て、
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ありと見て手にはとられず見ればまた行くへもしらず消えしかげろふ
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「あはれともうしともいはじかげろふのあるかなきかに消ゆる世なれば」と例のように独言《ひとりごと》を言っていた。
底本:「全訳源氏物語 下巻」角川文庫、角川書店
1972(昭和47)年2月25日改版初版発行
1995(平成7)年5月30日40版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年4月10日44版を使用しました。
入力:上田英代
校正:鈴木厚司
2004年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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