なさいまし」
 と右近は言ったが、
「宮様へ今日は何も申し上げる気はしない」
 と恥じたふうで浮舟《うきふね》は言い、無駄《むだ》書きに、

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里の名をわが身に知れば山城の宇治のわたりぞいとど住みうき
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 と書いていた。浮舟は宮の描《か》いてお置きになった絵をときどき出して見ては泣かれるのであった。こうした関係を長く続けていってはならないと反省はするが、薫のほうへ引き取られて宮との御縁の絶たれることは悲しく思われてならぬらしい。

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かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に浮きて世をふる身ともなさばや
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 こう浮舟が書いてきたのを御覧になり、兵部卿《ひょうぶきょう》の宮は声をたててお泣きになった。自分ばかりが熱愛しているのでなく、彼女も自分を恋しく思うことがあるのであろうと想像をあそばすと、浮舟の姫君が物思わしそうにしていた面影がお目の前に立って悲しかった。
 薫は余裕のある気持ちで浮舟から来た返事を読み、かわいそうにどんなに物思いをしているであろうと恋しく思った。

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つれづれと身を知る雨のをやまねば袖さへいとど水《み》かさまさりて
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 という歌を長く手から放たずながめ入っていたのであった。
 薫は夫人の宮とお話をしていたついでに、
「無礼だとあなたがお思いにならぬかと不安に思いながら、ずっと以前から愛していました女が一人あるのです。京の街《まち》の中でもない遠い所に置き放しにしてありますために、物思いばかりいたしているふうなのがかわいそうで、町の中へ呼び寄せてやろうと思います。少年時代から私は人に違った心を持っていまして、宗教のほうへはいって一生を送ろうと覚悟していたのですが、あなたと結婚をして今では出家も実行できませんから、そうなってみますとだれにも隠してあった人のことも気の毒になりまして罪を作っているように思われるものですから」
 と浮舟のことを言い、また、
「あなたのどんなことが私の苦痛になるものかまだ私は知らないのですもの」
 宮はこうお言いになった。
「お上《かみ》へそんなことで私を中傷する人ができないかと心配するのですよ。世間の人はいろいろなことを言いたがるものですからね、けれど今の関係は世間が問題にするにも足りないものなのですが」
 などと薫は言っていた。
 新築させた邸《やしき》へ浮舟を入れようと思っていたが、そのために家までも作ったと派手《はで》な取り沙汰《ざた》などをされるのは苦しいことであると薫は思い、ひそかに襖子《からかみ》を張らせなどすることを、人もあろうに内記の妻の親である大蔵の五位へ心安いままに命じたのであったから、時方《ときかた》から話は皆兵部卿の宮のほうへ聞こえてしまった。
「絵師も大将の御随身の中にいますものとか、御従属しております人の中とかからお選びになりまして、さすがに歴としたお邸《やしき》の準備を宇治の方のためにさせておいでになります」
 と申すのをお聞きになって、いっそう宮はおあせりになり、御自身の乳母《めのと》が遠国の長官の妻になって良人《おっと》の任地へ行ってしまうその家が下京のほうにあるのをお知りになり、
「自分が世間へ知らせずに隠して置きたい女のためにしばらくその家を借りたい」
 と御相談になると、女とはどんな人なのであろうと乳母は思ったが、熱心に仰せられることであったから、お否み申し上げるのはもったいないように思われて承諾した。この家がお見つかりになったために宮は少し御安心をあそばされた。三月の末日に乳母は家を出るはずであったから、その日に宇治から恋人を移そうと計画をしておいでになるのであった。こう思っている、秘密に秘密にしてお置きなさいと書いておやりになったのであるが、御自身で宇治へおいでになることは至難のことになっていた。
 山荘のほうからも乳母は気のはしこくつく女であるからお迎えすることは不可能であると右近が書いてきた。
 薫からは四月十日と移転の日をきめて来た。「誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ」とは思われないで、女はいかに進退すべきかに迷い、不安さに母の所へしばらく行ってよく考えを定めればいいであろうと思われたが、少将の妻になっている常陸守《ひたちのかみ》の娘の産期が近づいたため、祈祷《きとう》とか読経《どきょう》とかをさせるために家のほうは騒いでいて、懸案だった石山|詣《もう》でもできなくなり、母のほうから宇治の山荘へ出て来た。乳母がさっそく出て来て、
「殿様のほうから、女房たちの衣装をこまごまと気をおつけになりましてたくさんな材料をくださいましたから、どうかしてきれいな体裁をととのえたいと思っておりますけれど、私の頭で考えますこと
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