なることもあるでしょうから、伺わないわけにはまいりません。そっと来てそっと帰ったなどとお思われましても義理が立ちません」
と言い、同行をしようとしないのであったが、すぐに中の君に今度のことを聞かれるのも心恥ずかしいことに薫は思い、
「それはまたあとでお目にかかってお詫《わ》びをすればいいではありませんか。あちらへ行って知っている者がそばにいないでは心細い所ですからね。ぜひおいでなさい」
と薫はいっしょにここを出ていくように勧めた。そして、
「だれかお付きが一人来られますか」
と言ったので、姫君の始終そばにいる侍従という女房が行くことになり、尼君はそれといっしょに陪乗《ばいじょう》した。姫君の乳母《めのと》や、尼の供をして来た童女なども取り残されて茫然《ぼうぜん》としていた。
近いどこかの場所へ行くことかと侍従などは思っていたが、宇治へ車は向かっているのであった。途中で付け変える牛の用意も薫はさせてあった。河原を過ぎて法性寺《ほうしょうじ》のあたりを行くころに夜は明け放れた。若い侍従はほのかに宇治で見かけた時から美貌《びぼう》な薫に好意を持っていたのであるから、だれが見て何と言おうとも意に介しない覚悟ができていた。姫君ははなはだしい衝動を受けたあとで、失心したようにうつ伏しになっていたのを、
「石の多い所は、そうしていれば苦しいものですよ」
と言い、薫は途中から抱きかかえた。薄物の細長を中に掛けて隔ては作ってあったが、はなやかに出た朝日の光に前方も後方もあらわに見えるようになってからは、弁は自身の尼姿が恥じられるとともに、薫を良人《おっと》として大姫君のいで立って行くこうした供をする日を期していたにもかかわらず、その女王《にょおう》は亡《な》くなってしまい、長生きをした咎《とが》に意外な姫君と薫の同車する片端にいることになったと思われることで悲しくなり、隠そうとするのであるが悲しい表情の現われて、泣きもするのを侍従は憎らしがった。縁起を祝う結婚の初めに、尼姿で同車して来たのさえ不都合であるのに、涙目まで見せるではないかと蔑《さげす》んだ。弁の感情がどう細かに動いているかも知らず、老人は泣き虫であるからしかたがないと思うからである。薫も姫君を愛すべき人とは見ているのであるが、秋の空の気配《けはい》にも昔の恋しさがつのり山を深く行くに従って霧が立ち渡っているように視野をさえぎる涙を覚えた。外をながめながら後ろの板へよりかかっていた薫の重なった袖《そで》が、長く外へ出ていて、川霧に濡《ぬ》れ、紅《あか》い下の単衣《ひとえ》の上へ、直衣《のうし》の縹《あさぎ》の色がべったり染まったのを、車の落とし掛けの所に見つけて薫は中へ引き入れた。
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かたみぞと見るにつけても朝霧の所せきまで濡るる袖かな
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この歌を心にもなく薫が口に出したのを聞いていて尼は袖を絞るほどにも涙で濡らしていた。若い侍従は奇怪な現象である、うれしいはずの晴れの旅ではないかと不快がっていた。おさえ切れぬらしい弁の忍び泣きの声を聞いていて、自身も涙をすすり上げた薫は、新婦がどう思うことであろうと心苦しくなって、
「長い間この路《みち》を通って行ったものだと思うと、なんということなしに身にしむものが覚えられますよ。少し起き上がってこの辺の山の景色《けしき》なども御覧なさい。あまりに引っ込んでばかりいるではありませんか」
と、慰めるように言って、しいて身体《からだ》を起こさせると、姫君は美しい形に扇で顔をさし隠しながら、恥ずかしそうにあたりを見まわした目つきなどは総角《あげまき》の姫君を思い出させるのに十分であったが、おおように過ぎてたよりないところがこの人にはあって、あぶなっかしい気がされなくもなかった。若々しくはありながら自己を護《まも》る用意の備わった人であったのをこれに比べて思うことによって、昔を思う薫の悲しみは大空をさえもうずめるほどのものになった。
山荘へ着いた時に薫は、その人でない新婦を伴って来たことを、この家にとまっているかもしれぬ故人の霊に恥じたが、こんなふうに体面も思わぬような恋をすることになったのはだれのためでもない、昔が忘れられないからではないかなどと思い続けて、家へはいってからは新婦をいたわる心でしばらく離れていた。女は母がどう思うであろうと歎かわしい心を、艶《えん》な風采《ふうさい》の人からしんみりと愛をささやかれることに慰めて車から下《お》りて来たのであった。
尼君は主人たちの寝殿の戸口へは下りずに、別な廊のほうへ車をまわさせて下りたのを、それほど正式にせずともよい山荘ではないかと薫は思ったのであった。荘園のほうからは例のように人がたくさん来た。薫の食事はそちらから運ばれ、姫君のは弁の尼が調じて出した。山中の途《みち》は陰気であったが山荘のながめは晴れ晴れしかった。自然の川をも山をも巧みに取り扱った新しい庭園をながめて、昨日までの仮|住居《ずまい》の退屈さが慰められる姫君であったが、どう自分を待遇しようとする大将なのであろうとその点が不安でならなかった。薫は京へ手紙を書いていた。
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未完成でした仏堂の装飾などについて、いろいろ指図《さしず》を要することがありまして、昨夜はそれに時を費やし、また今日はそれを備えつけるのに吉日でしたから、急に宇治へ出かけたのでした。ここまで来ますと疲れが出ましたのとともに、謹慎日であることに気がついたものですから、明日までずっと滞留することにしようと思います。
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というような文意で、母宮へも、夫人の宮へも書かれたのである。
部屋着になって、直衣《のうし》姿の時よりももっと艶《えん》に見える薫のはいって来たのを見ると、姫君は恥ずかしくなったが、顔を隠すこともできずそのままでいた。母の夫人の作らせた美服をいろいろと重ねて着ているが、少し田舎《いなか》風なところが混じって見えるのにも、昔の恋人が着古したものを着ながらも貴女《きじょ》らしい艶なところの多かったことの思い出される薫であった。姫君の髪の裾《すそ》はきわだって品よく美しかった。女二の宮のお髪《ぐし》のすばらしさにも劣らないであろうと薫は思った。そんなことから、この人をどう取り扱うべきであろう、今すぐに妻の一人としてどこかの家へ迎えて住ませることは、世間から非難を受けることであろうし、そうかといって他の侍妾《じしょう》らといっしょに女房並みに待遇しては自分の本意にそむくなどと思われて心を苦しめていたが、当分は山荘へこのまま隠しておこうと思うようになった。しかし始終逢うことができないでは物足らず寂しいであろうと考えられ、愛着の覚えられるままにこまやかに将来を誓いなどしてその日を暮らした。八の宮のことも話題にして、昔の話もこまごまと語って聞かせ、戯れもまた言ってみるのであったが、女はただ恥ずかしがってばかりいて、何も言わぬのを物足らず薫は思ったが、欠点らしくは見えても、こうしたたよりないところのあるのは、よく教育していけばよいのである、田舎《いなか》風に洒落《しゃれ》たところができていて、品悪く蓮葉《はすっぱ》であれば、人型《ひとがた》もまた無用とするかもしれないのであると思い直しもした。山荘に備えつけてあった琴や十三|絃《げん》を出させて、こうしたたしなみはましてないであろうと残念な気のする薫は一人で弾《ひ》きながら、宮がお亡《かく》れになったのち、この家で楽器などというものに久しく手を触れたことがなかったと、自身の爪音《つまおと》さえも珍しく思われ、なつかしい絃声を手探りで出し、目は昔の夢を見るように外へ注いでいるうちに、月も出てきた。宮の琴の音は、音量の豊かなものではなかったが、美しい声が出て身にしむところがあったと思い、
「あなたが宮様もお姉様もおいでになったころに、ここで大人《おとな》になっていたら、あなたの価値はもっとりっぱになっていたでしょうね。宮様の御様子は子でない私でさえ始終恋しく思い出されるのですよ。どうしてあなたは遠い国などから長く帰れなかったのだろう」
薫のこう言うのを恥ずかしく聞いて、手で白い扇をもてあそびながら横たわっている姫君の顔色は、透くように白くて、艶《えん》な額髪の所などが総角《あげまき》の姫君をよく思い出させ、薫は心の惹《ひ》かれるのを覚えた。ほかの教育はともかく、こうした音楽などは自分の手で教えて行きたいと薫は思い、
「こんなものを少しやってみたことがありますか。吾《わ》が妻《つま》という琴などは弾いたでしょう」
などと問うてみた。
「そうしたやまと言葉も使い馴《な》れないのですもの、まして音楽などは」
姫君はこう答えた。機智《きち》もありそうには見えた。この山荘に置いて、思いのままに来て逢うことのできないのを今すでに薫は苦痛と覚えるのは深く愛を感じているからなのであろう。楽器は向こうへ押しやって、「楚王台上夜琴声《そわうだいじやうのよるのきんせい》」と薫が歌い出したのを、姫君の上に描いていた美しい夢が現実のことになったように侍従は聞いて思っていた。その詩は前の句に「斑女閨中秋扇色《はんによけいちゆうしうせんのいろ》」という女の悲しい故事の言われてあることも知らない無学さからであったのであろう。悪いものを口にしたと薫はあとで思った。
尼君のほうから菓子などが運ばれてきた。箱の蓋《ふた》へ楓《かえで》や蔦《つた》の紅葉《もみじ》を敷いてみやびやかに菓子の盛られてある下の紙に、書いてある字が明るい月光で目についたのを、よく読もうと顔を寄せているのが、食欲が急に起こったように他からは見えておかしかった。
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やどり木は色変はりぬる秋なれど昔おぼえて澄める月かな
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と古風に書かれてある歌の心に、薫は羞恥《しゅうち》を覚え、哀れも感じて、
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里の名も昔ながらに見し人の面《おも》がはりせる閨《ねや》の月かげ
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返事ともなくこう口ずさんでいたのを、侍従が弁の尼へ伝えたそうである。
底本:「全訳源氏物語 下巻」角川文庫、角川書店
1972(昭和47)年2月25日改版初版発行
1995(平成7)年5月30日40版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年4月10日44版を使用しました。
入力:上田英代
校正:kompass
2004年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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