。そんな話はまたまいって申し上げましょう。あちらの寝殿を御堂に直すことを阿闍梨《あじゃり》に命じて来ました。お許しを得ましてから、他の場所へ移すことにも着手させましょう。弁の尼へあなたから御承諾になるならぬをお言いやりになってください。
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こう書かれてあった。
「よくもしらじらしく書けた手紙だ。私がこちらにいると聞いていたのだろう」
と宮はお言いになるのであった。少しはそうであったかもしれない。夫人は用事だけの言われてあったのをうれしく思ったのであるが、どこまでも疑ったものの言いようを宮があそばすのをうるさく思い、恨めしそうにしている顔が非常に美しくて、この人が犯せばどんな過失も許す気になるであろうと宮は見ておいでになった。
「返事をお書きなさい。私は見ないようにしているから」
宮はわざとほかのほうへ向いておしまいになった。そうお言いになったからと言って、書かないでは怪しまれることであろうと夫人は思い、
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山里へおいでになりましたことはおうらやましいことと承りました。あちらは仰せのように御堂にいたすのがよろしいことと思っておりました。しかしまた私自身のために隠れ家として必要のあることを思い、荒廃はいたさせたくない願いもあったのですが、あなたのお計らいで両様の望みがかないますればありがたいことと存じます。
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と返事を書いた。こんなふうの友情をかわすだけの二人であろうと思っておいでになりながらも、御自身のお心慣らいから秘密があるように察せられて、御不安がのけがたいのであろう。枯れ枯れになった庭の植え込みの中の薄《すすき》が何草よりも高く手を出して招いている形が美しく、また穂を持たないのも露を貫き玉を掛けた身をなびかせていることなどは平凡なことであるが夕風の吹いている草原は身にしむことが多いものである。
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穂にいでぬ物思ふらししのすすき招く袂《たもと》の露しげくして
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柔らかになったお小袖《こそで》の上に直衣《のうし》だけをお被《き》になり、琵琶《びわ》を宮は弾《ひ》いておいでになった。黄鐘調《おうじきちょう》の掻《か》き合わせに美しい音を出しておいでになる時、夫人は好きな音楽であったから、恨めしいふうばかりはしておられず、小さい几帳《きちょう》の横から脇息《きょうそく》によりかかって少し姿を現わしているのが非常に可憐《かれん》に見えた。
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「あきはつる野べのけしきもしの薄《すすき》ほのめく風につけてこそ知れ
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『わが身一つの』(おほかたのわが身一つのうきからになべての世をも恨みつるかな)」
と言ううちに涙ぐまれてくるのも、さすがに恥ずかしく扇で紛らしているその気分も愛すべきであると宮はお思われになるのであるが、こんな人であるからほかの男も忘れがたく思うのであろうと疑いをお持ちになるのが夫人の身に恨めしいことに相違ない。白菊がまだよく紫に色を変えないで、いろいろ繕われてあるのはことに移ろい方のおそい中にどうしたのか一本だけきれいに紫になっているのを宮はお折らせになり「花中偏愛菊《はなのなかにひとへにきくをあいす》」と誦《ず》しておいでになったが、
「某《なにがし》親王がこの花を愛しておいでになった夕方ですよ、天人が飛んで来て琵琶《びわ》の手を教えたというのはね。何事もあさはかになって天人の心を動かすような音楽というものはもはや地上からなくなってしまったのは情けない」
とお言いになり、楽器を下へ置いておしまいになったのを、中の君は残念に思い、
「人間の心だけはあさはかにもなったでしょうが、昔から伝わっております音楽などはそれほどにも堕落はしておりませんでしょう」
こう言って、自身でおぼつかなくなっている手を耳から探り出したいと願うふうが見えた。宮は、
「それでは単独《ひとり》で弾《ひ》いているのは寂しいものだから、あなたが合わせなさい」
とお言いになって、女房に十三|絃《げん》をお出させになって、夫人に弾かせようとあそばされるのだったが、
「昔は先生になってくださる方がございましたけれど、そんな時にもろくろく私はお習い取りすることはできなかったのですもの」
恥ずかしそうに言って、中の君は楽器に手を触れようともしない。
「これくらいのことにもまだあなたは隔てというものを見せるのは情けないではありませんか、このごろ通って行く所の人は、まだ心が解けるというほどの間柄になっていないのに、未成品的な琴を聞かせなさいと言えば遠慮をせずに弾きますよ。女は柔らかい素直なのがいいとあの中納言も言っていましたよ。あの人へはこんなに遠慮をばかり見せないのでしょう。非常な仲よしなのだから」
などと薫《かおる》のことまでも言葉に出してお恨みになったため、夫人は歎息をしながら少し琴を弾いた。近ごろ使われぬ琴は緒がゆるんでいたから盤渉調《ばんじきちょう》にしてお合わせになった。夫人の掻き合わせの爪音《つまおと》が美しい。催馬楽《さいばら》の「伊勢《いせ》の海」をお歌いになる宮のお声の品よくおきれいであるのを、そっと几帳の後ろなどへ来て聞いていた女房たちは満足した笑《え》みを皆見せていた。
「二人の奥様をお持ちあそばすのはお恨めしいことですが、それも世のならわしなのですからね、やはりこの奥様を幸福な方と申し上げるほかはありませんよ。こうした所の大事な奥様になってお暮らしになる方とは思うこともできませんようでしたもとの生活へ、また帰りたいようによくおっしゃるのはどうしたことでしょう」
といちずになって言う老いた女房はかえって若い女房たちから、
「静かになさい」
と制されていた。
琵琶《びわ》などをお教えになりながら三、四日二条の院に宮がとどまっておいでになり、謹慎日になったからというような口実を作って六条院へおいでにならないのを左大臣家の人々は恨めしがってい、大臣が御所から退出した帰り路《みち》に二条の院へ出て来た。
「たいそうなふうをして何しにおいでになったのかと言いたい」
などとお言いになり、宮は不機嫌《ふきげん》になっておいでになったが、客殿のほうへ行って御面会になった。
「何かの機会のない限りはこの院へ上がることがなくなっております私には目に見るものすべてが身に沁《し》んでなりません」
とも言い、六条院のお話などをしばらくしていたあとで、大臣は宮をお誘い出して行くのであった。子息たちその他の高級役人、殿上役人なども多く引き連れている勢力の偉大さを見て、比較にもならぬ世間的に無力な身の上を中の君は思ってめいった気持ちになっていた。女房らはのぞきながら、
「ほんとうにおきれいな大臣様、あんなにごりっぱな御子息様たちで、皆若盛りでお美しいと申してよい方たちが、だれもお父様に及ぶ方はないじゃありませんか、なんという美男でいらっしゃるのでしょう」
と中には言う者もあった。また、
「あんなおおぎょうなふうをなすって、わざわざお迎えなどにおいでになるなんてくちおしい。世の中って楽なものではありませんね」
と歎息する女もあった。夫人自身も寂しい来し方を思い出し、あのはなやかな人たちの世界の一隅《いちぐう》を占めることは不可能な影の淡《うす》い身の上であることがいよいよ心細く思われて、やはり自分は宇治へ隠退してしまうのが無難であろうと考えられるのであった。
日は早くたち年も暮れた。一月の終わりから普通でない身体の苦痛を夫人は感じだしたのを、宮もまだ産をする婦人の悩みをお見になった御経験はなかったので、どうなるのかと御心配をあそばして、今まで祈祷《きとう》などをほうぼうでさせておいでになった上に、さらにほかでも修法を始めることをお命じになった。非常に容体が危険に見えたために中宮《ちゅうぐう》からもお見舞いの使いが来た。中の君が二条の院へ迎えられてから足かけ三年になるが、御|良人《おっと》の宮の御愛情だけはおろそかなものでないだけで、一般からはまだ直接親王夫人に相当する尊敬は払われていなかったのに、この時にはだれも皆驚いて見舞いの使いを立て、自身でも二条の院へ来た。
源中納言は宮の御心配しておいでになるのにも劣らぬ不安を覚えて、気づかわしくてならないのであっても、表面的な見舞いに行くほかは近づいて尋ねることもできずに、ひそかに祈祷などをさせていた。この人の婚約者の女二《にょに》の宮《みや》の裳着《もぎ》の式が目前のことになり、世間はその日の盛んな儀礼の用意に騒いでいる時であって、すべてを帝《みかど》御自身が責任者であるようにお世話をあそばし、これでは後援する外戚《がいせき》のないほうがかえって幸福が大きいとも見られ、亡《な》き母君の藤壺《ふじつぼ》の女御《にょご》が姫宮のために用意してあった数々の調度の上に、宮中の作物所《つくりものどころ》とか、地方長官などとかへ御下命になって作製おさせになったものが無数にでき上がってい、その式の済んだあとで通い始めるようにとの御内意が薫へ伝達されている時であったから、婿方でも平常と違う緊張をしているはずであるが、なおいままでどおりにそちらのことはどうでもいいと思われ、中の君の産の重いことばかりを哀れに思って歎息を続ける薫であった。
二月の朔日《ついたち》に直物《なおしもの》といって、一月の除目《じもく》の時にし残された官吏の昇任更任の行なわれる際に、薫は権《ごん》大納言になり、右大将を兼任することになった。今まで左大将を兼ねていた右大臣が軍職のほうだけを辞し、右が左に移り、右大将が親補されたのである。新任の挨拶《あいさつ》にほうぼうをまわった薫は、兵部卿《ひょうぶきょう》の宮へもまいった。夫人が悩んでいる時であって、宮は二条の院の西の対においでになったから、こちらへ薫は来たのであった。僧などが来ていて儀礼を受けるには不都合な場所であるのにと宮はお驚きになり、新しいお直衣《のうし》に裾《すそ》の長い下襲《したがさね》を召してお身なりをおととのえになって、客の礼に対する答《とう》の拝礼を階下へ降りてあそばされたが、大将もりっぱであったし、宮もきわめてごりっぱなお姿と見えた。この日は右近衛府《うこんえふ》の下僚の招宴をして纏頭《てんとう》を出すならわしであったから、自邸でとは言っていたが、近くに中の君の悩んでいる二条の院があることで少し躊躇《ちゅうちょ》していると、夕霧の左大臣が弟のために自家で宴会をしようと言いだしたので六条院で行なった。皇子がたも相伴の客として宴にお列《つらな》りになり、高級の官吏なども招きに応じて来たのが多数にあって、新任大臣の大饗宴《だいきょうえん》にも劣らない盛大な、少し騒がし過ぎるほどのものになった。兵部卿の宮も出ておいでになったのであるが、夫人のことがお気づかわしいために、まだ宴の終わらぬうちに急いで二条の院へお帰りになったのを、左大臣家の新夫人は不満足に思い、ねたましがった。同じほどに愛されているのであるが権家の娘であることに驕《おご》っている心からそう思われたのであろう。
ようやくその夜明けに二条の院の夫人は男児を生んだ。宮も非常にお喜びになった。右大将も昇任の悦《よろこ》びと同時にこの報を得ることのできたのをうれしく思った。昨夜の宴に出ていただいたお礼を述べに来るのとともに、御男子出産の喜びを申しに、薫は家へ帰るとすぐに二条の院へ来たのであった。
兵部卿の宮がそのままずっと二条の院におられたから、お喜びを申しに伺候しない人もなかった。産養《うぶやしない》の三日の夜は父宮のお催しで、五日には右大将から産養を奉った。屯食《とんじき》五十具、碁手《ごて》の銭、椀飯《おうばん》などという定まったものはその例に従い、産婦の夫人へ料理の重ね箱三十、嬰児《えいじ》の服を五枚重ねにしたもの、襁褓《むつき》などに目だたぬ華奢《かしゃ》の尽くされてあるのも、よく見ればわかるのであった。父宮へも浅香木の折敷《
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