が、以前よりも少し宮へ甘えた心になっていたために、宮はなお可憐に思召され、心を惹《ひ》かれておいでになったが、深く夫人にしみついている中納言のにおいは、薫香《くんこう》をたきしめたのには似ていず特異な香であるのを、においというものをよく研究しておいでになる宮であったから、それとお気づきになって、奇怪なこととして、何事かあったのかと夫人を糺《ただ》そうとされる。宮の疑っておいでになることと事実とはそうかけ離れたものでもなかったから、何ともお答えがしにくくて、苦しそうに沈黙しているのを御覧になる宮は、自分の想像することはありうべきことだ、よも無関心ではおられまいと始終自分は思っていたのであるとお胸が騒いだ。薫のにおいは中の君が下の単衣《ひとえ》なども昨夜のとは脱ぎ替えていたのであるが、その注意にもかかわらず全身に沁《し》んでいたのである。
「あなたの苦しんでいるところを見ると、進むところへまで進んだことだろう」
とお言いになり、追究されることで夫人は情けなく、身の置き所もない気がした。
「私の愛はどんなに深いかしれないのに、私が二人の妻を持つようになったからといって、自分も同じように自由に人を愛しようというようなことは身分のない者のすることですよ。そんなに私が長く帰って来ませんでしたか、そうでもないではありませんか。私の信じていたよりも愛情の淡《うす》いあなただった」
などとお責めになるのである。愛する心からこうも思われるのであるというふうにお訊《き》きになっても、ものを言わずにいる中の君に嫉妬《しっと》をあそばして、
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またびとになれける袖《そで》の移り香をわが身にしめて恨みつるかな
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とお言いになった。夫人は身に覚えのない罪をきせておいでになる宮に弁明もする気にならずに、
「あなたの誤解していらっしゃることについて何と申し上げていいかわかりません。
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見なれぬる中の衣と頼みしをかばかりにてやかけ離れなん」
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と言って泣いていた。その様子の限りなく可憐《かれん》であるのを宮は御覧になっても、こんな魅力が中納言を惹《ひ》きつけたのであろうとお思いになり、いっそうねたましくおなりになり、御自身もほろほろと涙をおこぼしになったというのは女性的なことである。どんな過失が仮にあったとしても、この人をうとんじてしまうことはできないふうな、美しいいたいたしい中の君の姿に、恨みをばかり言っておいでになることができずに、宮は歎いている人の機嫌《きげん》を直させるために言い慰めもしておいでになった。
翌朝もゆるりと寝ておいでになって、お起きになってからは手水《ちょうず》も朝の粥《かゆ》もこちらでお済ませになった。座敷の装飾も六条院の新婦の居間の輝くばかり朝鮮、支那《しな》の錦《にしき》で装飾をし尽くしてある目移しには、なごやかな普通の家の居ごこちよさをお覚えになって、女房の中には着疲れさせた服装のも混じっていたりして、静かに見まわされる空気が作られていた。夫人は柔らかな淡紫《うすむらさき》などの上に、撫子《なでしこ》色の細長をゆるやかに重ねていた。何一つ整然としていぬものもないような盛りの美人の新婦に比べてごらんになっても、劣ったともお思われにならず、なつかしい美しさの覚えられるというのは宮の御愛情に相当する人というべきであろう。円《まる》く肥えていた人であったが、少しほっそりとなり、色はいよいよ白くて上品に美しい中の君であった。怪しい疑いを起こさせるにおいなどのついていなかった常の時にも、愛嬌《あいきょう》のある可憐な点はだれよりもすぐれていると見ておいでになった人であるから、この人を兄弟でもない男性が親しい交際をして自然に声も聞き、様子もうかがえる時もあっては、どうして無関心でいられよう、必ず結果は恋を覚えることになるであろうと、宮は御自身の好色な心から想像をあそばして、これまでから恋をささやく明らかな証《あかし》の見える手紙などは来ていぬかとお思いになり、夫人の居間の中の飾り棚《だな》や小さい唐櫃《からびつ》などというものの中をそれとなくお捜しになるのであったが、そんなものはない。ただまじめなことの書かれた短い、文学的でもないようなものは、人に見せぬために別にもしてなくて、物に取り混ぜてあったのを発見あそばして、不思議である、こんな用事を言うものにとどまるはずはないとお疑いの起こることで今日のお心が冷静にならないのも道理である。夫人が魅力を持つばかりでなく中納言の姿もまた趣味の高い女が興味を覚えるのに十分なものであるから、愛に報いぬはずはない、よい一対の男女であるから、相思の仲にもなるであろうと、こんな御想像のされるために、宮はわびしく腹だたしく、ねたましくお思いになった。不安なお気持ちが静まらぬため、その日も二条の院にとどまっておいでになることになり、六条院へはお手紙の使いを二、三度お出しになった。わずかな時間のうちにもそうも言っておやりになるお言葉が積もるのかと老いた女房などは陰口を申していた。
中納言はこんなに宮が二条の院にとどまっておいでになることを聞いても苦しみを覚えるのであったが、自分は誤っている、愚かな情炎を燃やしてはよろしくない、そうした愛でない清い愛で助けようと決心していた人に対して、思うべからぬことを思ってはならぬとしいて思い返し、このままにしていても、自分の気持ちは汲んでくれる人に違いないという自信の持てるのがうれしかった。女房たちの衣服がなつかしい程度に古びかかっていたようであったのを思って、母宮のお居間へ行き、
「品のよい女物で、お手もとにできているのがあるでしょうか、少し入り用なことがあるのです」
とお尋ねすると、
「例年の法事は来月ですから、その日の用意の白い生地などがあるだろうと思います。染めたものなどは平生たくさんは私の所に置いてないから、急いで作らせましょう」
宮はこうお答えになった。
「それには及びません。たいそうなことにいるのではありませんから、できているものでけっこうです」
と薫《かおる》は申し上げて、裁縫係りの者の所へ尋ねにやりなどして、女の装束幾重ねと、美しい細長などをありあわせのまま使うことにして、下へ着る絹や綾《あや》なども皆添え、自身の着料にできていた紅《あか》い糊絹《のりぎぬ》の槌目《つちめ》の仕上がりのよい物、白い綾の服の幾重ねへ添えたく思った袴《はかま》の地がなくて付け腰だけが一つあったのを、結んで加える時に、それへ、
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結びける契りことなる下紐《したひも》をただひとすぢに恨みやはする
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と歌を書いた。大輔《たゆう》の君という年のいった女房で、薫の親しい人の所へその贈り物は届けられたのである。
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にわかに思い立って集めた品ですから、よくそろいもせず見苦しいのですが、よいように取り合わせてお使いください。
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という手紙が添えられてあって、夫人の着料のものは、目だたせぬようにしてはあったが箱へ納めてあって、包みが別になっていた。大輔は中の君へこの報告はしなかったが、今までからこうした好意の贈り物を受け馴《な》れていたことであって、受け取らぬなどと返すべきでなかったから、どうしたものかとも心配することもなく女房たちへ分け与えたので、その人々は縫いにかかっていた。若い女房で宮御夫婦のおそばへよく出る人はことにきれいにさせておこうとしたことだと思われる。下仕えの女中などの古くなった衣服を白の袷《あわせ》に着かえさせることにしたのも目だたないことでかえって感じがよかった。
この夫人のために薫以外にだれがこうした物質の補いをする者があろう、宮は夫人を愛しておいでになったから、すべて不自由のないようにと計らってはおいでになるのであるが、女房の衣服のことまではお気のおつきにならないところであった。大事がられて御自身でそうした物のことをお考えになることはなかったのであるから、貧しさはどんなに苦しいものであるともお知りにならないのは道理なことである。寒けをさえ覚える恰好《かっこう》で花の露をもてあそんでばかりこの世はいくもののように思っておいでになる宮とは違い、愛する人のためであるから、何かにつけて物質の補助を惜しまない薫の志をまれな好意としてありがたく思っている人たちであるから、宮のお気のつかないことと、気のよくつく薫とを比較して譏《そし》るようなことを言う乳母《めのと》などもあった。童女の中には見苦しくなった姿で混じっていたりするのも目につくことがおりおりあったりして、夫人はそれを恥ずかしく思い、この住居《すまい》をしてかえって苦痛の多くなったようにも人知れず思うことがないでもなかったのであるのに、そしてこのごろは世の中の評判にさえなっている華美な宮の新婚後のお住居《すまい》の様子などを思うと、宮にお付きしている役人たちもどんなにこちらを軽蔑《けいべつ》するであろう、貧しさを笑うであろうという煩悶《はんもん》を中の君がしているのを、薫が思いやって知っていたのであったから、妹でもない人の所へ、よけいな出すぎたことをすると思われるこんなことも、侮《あなど》って礼儀を失ったのではなく、目だつようにしないのは、自分に助けられている夫人の無力を思う人があってはならないと思う心から、忍んでする薫であった。この贈り物があったために、女房の身なりをととのえさせることができ、袿《うちぎ》を織らせたり、綾《あや》を買い入れる費用も皆与えることができた。薫も宮に劣らず大事にかしずかれて育った人で、高い自尊心も持ち、一般の世の中から超越した貴族的な人格も持っているのであるが、宇治の八の宮の山荘へ伺うようになって以来、豊かでない家の生活の寂しさというものは想像以上のものであったと同情を覚え、その御一家だけへではなく、物質的に恵まれない人々をあまねく救うようになったのである。哀れな動機というべきである。
薫はぜひとも中の君のために邪悪な恋は捨てて、清い同情者の地位にとどまろうとするのであるが、自身の心が思うにまかせず、常に恋しくばかり思われて苦しいために、手紙をもって以前よりもこまごまと書き、不用意に恋の心が出たふうに見せたような消息をよく送るようになったのを、中の君はわびしいことの添ってきた運命であると歎いていた。まったく知らぬ人であったならば、狂気の沙汰《さた》とたしなめ、そうした心を退けるのが容易なことであろうが、昔から特別な後援者と信頼してきて、今さら仲たがいをするのはかえって人目を引くことになろうと思い、さすがにまた薫の愛を憐《あわれ》む心だけはあるのであっても、誘惑に引かれて相手をしているもののようにとられてはならぬとはばかられて煩悶《はんもん》がされた。女房たちも夫人の気持ちのわかりそうな若い人らは皆新しく京へ移った前後から来てなじみが浅く、またなじみの深い人たちといっては昔から宇治にいた老いた女房らであったから、苦しいことも左右の者に洩《も》らすことができず、姉君を思い出さぬおりもなかった。姉君さえおいでになれば中納言も自分へ恋をするようなことにはむろんならなかったはずであると、大姫君の死が悲しく思われ、宮が二心をお持ちになり、恨めしいことも起こりそうに予想されることよりもこの中納言の恋を中の君は苦しいことに思った。
薫はおさえきれぬものを心に覚えて、例のとおりにしんみりとした夕方に二条の院の中の君を訪《たず》ねて来た。すぐに縁側へ敷き物を出させて、
「身体《からだ》を悪くしております時で、お話を自身で伺えませんのが残念でございます」
と中の君が取り次がせて来たのを聞くと、薫は恨めしさに涙さえ落ちそうになったのを人目につかぬようにしいて紛らして、
「御病気の時には、知らぬ僧でもお近くへまいるのですから、私も医師並みに御簾《みす》の中へお呼びいただいてもいいわけでしょう。こうし
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