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山風に霞《かすみ》吹き解く声はあれど隔てて見ゆる遠《をち》の白波
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漢字のくずし字が美しく書かれてあった。兵部卿の宮は、少なからぬ関心を持っておいでになる所からのおたよりとお知りになり、うれしく思召して、
「このお返事は私から出そう」
とお言いになって、次の歌をお書きになった。
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遠近《をちこち》の汀《みぎは》の波は隔つともなほ吹き通へ宇治の川風
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薫は自身でまいることにした。音楽好きな公達《きんだち》を誘って同船して行ったのであった。船の上では「酣酔楽《かんすいらく》」が奏された。
河に臨んだ廊の縁から流れの水面に向かってかかっている橋の形などはきわめて風雅で、宮の洗練された御趣味もうかがわれるものであった。右大臣の別荘も田舎《いなか》らしくはしてあったが、宮のお邸《やしき》はそれ以上に素朴《そぼく》な土地の色が取り入れられてあって、網代屏風《あじろびょうぶ》などというものも立っていた。寂《さび》の味の豊かにある室内の飾りもおもしろく、あるいは兵部卿の宮の初瀬|詣《もう》での御帰途に立ち寄る客があるかもしれぬとして、よく清掃されてもあった。すぐれた名品の楽器なども、わざとらしくなく宮はお取り出しになって、参入者たちへ提供され、一越《いちこち》調で「桜人」の歌われるのをお聞きになった。名手の誉《ほま》れをとっておいでになる八の宮の御琴の音をこの機会にお聞きしたい望みをだれも持っていたのであるが、十三絃を合い間合い間にほかのものに合わせてだけお弾《ひ》きになるにとどまった。平生お聞きし慣れないせいか、奥深いよい音として若い人々は承った。山里らしい御|饗応《きょうおう》が綺麗《きれい》な形式であって、皆人がほかで想像していたに似ず王族の端である公達《きんだち》が数人、王の四位の年輩者というような人らが、常に八の宮へ御同情申していたのか、縁故の多少でもあるのはお手つだいに来ていた。酒瓶《しゅへい》を持って勧める人も皆さっぱりとしたふうをしていた。一種古風な親王家らしいよさのある御歓待の席と見えた。船で来た人たちには女王の様子も想像して好奇心の惹《ひ》かれる気のしたのもあるはずである。
兵部卿の宮はまして美しいと薫から聞いておいでになった姉妹《きょうだい》の姫君に興味をいだいておいでになって、自由な行動のおできにならぬことを、今までから憾《うら》みに思っておいでになったのであるから、この機会になりとも女王への初めの消息を送りたいとお思いになり、そのお心持ちがしまいに抑《おさ》えきれずに、美しい桜の枝をお折らせになって、お供に来ていた殿上の侍童のきれいな少年をお使いにされお手紙をお送りになった。
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山桜にほふあたりに尋ね来て同じ挿頭《かざし》を折りてけるかな
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野を睦《むつ》まじみ(ひと夜寝にける)
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というような御消息である。お返事はむずかしい、自分にはと二人の女王は譲り合っていたが、こんな場合はただ風流な交際として軽く相手をしておくべきで、あとまで引くことのないように、大事をとり過ぎた態度に出るのはかえって感じのよくないものであるというようなことを、古い女房などが申したために、宮は中姫君に返事をお書かせになった。
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挿頭《かざし》折る花のたよりに山賤《やまがつ》の垣根《かきね》を過ぎぬ春の旅人
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野を分きてしも
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これが美しい貴女《きじょ》らしい手跡で書かれてあった。河風《かわかぜ》も当代の親王、古親王の隔てを見せず吹き通うのであったから、南の岸の楽音は古宮家の人の耳を喜ばせた。
迎えの勅使として藤《とう》大納言が来たほかにまた無数にまいったお迎えの人々をしたがえて兵部卿の宮は宇治をお立ちになった。若い人たちは心の残るふうに河のほうをいつまでも顧みして行った。宮はまたよい機会をとらえて再遊することを期しておいでになるのである。一行の人々の山と水の風景を題にした作が詩にも歌にも多くできたのであるが細かには筆者も知らない。
周囲に御遠慮があって宇治の姫君へ再三の消息のおできにならなかったことを匂宮は飽き足らぬように思召して、それからは薫の手をわずらわさずに、直接のお文《ふみ》がしばしば八の宮へ行くことになった。父君の宮も、
「初めどおりにお返事を出すがよい。求婚者風にこちらでは扱わないでおこう。交友として無聊《ぶりょう》を慰める相手にはなるだろう。風流男でいられる方が若い女王のいることをお聞きになっての軽い遊びの心持ちだろうから」
こんなふうにお勧めになる時などには中姫君が書いた。
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