気で思うことをはきはきとお告げになることもおできにならずに、恥ずかしいお様子ばかりのお見えになるのがおかわいそうで、御息所は昨日のことをお尋ねすることもできない。灯《ひ》を早くつけさせてお夕食などもこちらで差し上げさせることに御息所はした。今朝から何も召し上がらないことを御息所は聞いて、ある物は自身で料理をし変えさせることを命じまでしてお勧めするのであるが、宮は御|箸《はし》をお触れになる気にもおなりになれなかった。ただ母君の容体がよさそうである点だけで少しの慰めを得ておいでになった。
夕霧の大将からまた手紙が来た。事情を知らない女房が使いから受け取って、
「大将さんから少将さんにというお手紙がまいりました」
と、この座敷で披露《ひろう》したことは、宮のお心をさらに苦しくさせたことであった。少将はすぐにそれを手もとへ取ってしまった。
「どんなお手紙」
と、今までそのことに一言も触れなかった御息所も問うた。反抗的になっていた御息所の心も、何時間かのうちに弱くなり、人知れず大将の今夜の来訪を待っていたのであるから、手紙が来るのは自身で来ぬことであろうと胸が騒いだのである。
「およこしになった手紙のお返事はなさいまし、しかたがございません。一度立てた名を取り消すような評判はだれがしてくれましょう。きれいな御自信はおありになっても、だれがそれを認めてくれましょう。素直にお返事もあそばして、冷淡になさらないほうがよろしゅうございます。わがままな性格だと思われてはなりません」
と宮に申し上げて、御息所《みやすどころ》は手紙を少将から受け取ろうとした。少将は心に当惑をしながらも渡すよりほかはなかった。
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冷ややかなお心を知りましたことによってかえっておさえがたいものに私の恋はなっていきそうです。
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せくからに浅くぞ見えん山河《やまかは》の流れての名をつつみはてずば
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まだいろいろに書かれてある手紙であったが、御息所は終わりまでを読まなかった。この手紙も宮との関係を明瞭《めいりょう》に説明したものでなくて恋人の冷ややかであったことにこうして酬《むく》いるというように、今夜も来ない大将の態度を御息所は悲しんだ。柏木《かしわぎ》が宮にお持ちする愛情のこまやかでないのを知った時に、御息所は悲観したものであるが、ただ一人の妻として形式的には鄭重《ていちょう》をきわめたお取り扱いを故人がしたことで、強みのある気がして慰められはした。それでも心から御息所は宮が御幸福におなりになったとは思わなかった。それさえもそうであったのに、今度のことは何たる悲しいことであろう。太政大臣家での取り沙汰《ざた》は想像するだにいやであると御息所は思うのである。なおどう大将が言ってくるかと見たい心から、非常に苦しい身体《からだ》の調子であるのを忍んで、目を無理にあけるようにもして書いた力のない、鳥の足跡のような字で返事をするのであった。
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もう私はなおる見込みもなくなりました。宮様はただ今こちらへ見舞いに来ておいでになるのでございまして、お勧めをしてみましたが、めいったふうになっておいでになりまして、お返事もお書けにならないようでございますから、私が見かねまして、
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女郎花《をみなへし》萎《しを》るる野辺をいづくとて一夜ばかりの宿を借りけん
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こう書きさしただけで紙を巻いて出した。そのまままた病床に横たわった御息所ははなはだしく苦しみだした。物怪《もののけ》が油断をさせようと一時的に軽快ならしめていたのかと女房たちは騒ぎだした。効験のいちじるしい僧が皆呼び集められて、病室は混雑していた。あちらへお帰りになるように女房たちはお勧めするのであるが、宮は御自身をお悲しみになる心から、いっしょに死のうと思召して母君からお離れにならないのであった。
夕霧はこの日の昼ごろから三条の家にいた。今夜また小野の山荘へ行くことは、まだない事実をあることらしく人に思わせるだけで、自分のためにはよい結果をもたらすことでないと行きたい心をしいておさえることに努力していたが、これまで恋しくお思いしていたことは物の数でもないほどに昨日からにわかに千倍した恋に苦しむ大将であった。夫人は山荘の昨日の訪問の様子をほかから聞き出して不快がっていたのであるが、知らぬ顔をして子供の相手をしながら自身の昼の居間のほうで横になっていた。
八時過ぎに小野の山荘で書いた御息所の返事は大将の所へ持って来られたのであるが、大病人の書いた鳥の跡は一度見たのではわかりにくい。夕霧が灯《ひ》を近くへ持って来させてさらに丁寧に読もうとしている時に、あちらにいたのであるが夫人はそれを見つけて、そっと寄って来て後ろから奪ってしまった。夕霧はあきれて、
「どうするのですか。けしからんじゃありませんか。六条の東のお母様のお手紙ですよ。今朝から風邪《かぜ》でお悪かったから、院の御殿へ伺ったままでこちらへ帰って来て、もう一度お訪《たず》ねすることをしなかったのがお気の毒だったから、御様子を聞く手紙を持たせてやったのじゃありませんか。御覧なさい、恋の手紙というような書き方ですか、これは。はしたない下品なことをするじゃありませんか。年月に添って私を侮《あなど》ることがひどくなるのは困ったものだ。女房たちがどう思うかを少しも考慮に入れないのですね」
と言って歎息《たんそく》はしたが、惜しそうにしてしいて夫人の手から取り上げることはしなかったから、雲井《くもい》の雁《かり》夫人もさすがにこの場で読むこともできずにじっと持っていた。
「年月に添って侮るなどとは、あなた御自身がそうでいらっしゃるから、私のことまでも臆測《おくそく》なさるのよ」
夫人は良人《おっと》があまりにまじめな顔をしているのに気おくれがして、若々しく甘えてみせた。夕霧は笑って、
「それはどちらのことでもいい。世間のどこにもあることだからね。けれどもこれだけはほかにないことですよ。相当な身分の男がただ一人の妻を愛して、何かに怖《おそ》れている鷹《たか》のように、じっと一所を見守っているようなのに似た私を、どんなに人が笑っていることだろう。そんな偏屈な男に愛されていることはあなたにとっても名誉じゃありませんよ。おおぜいの妻妾《さいしょう》の中ですぐれて愛される人は、見ない人までもが尊敬を寄せるものだし、自分でも始終緊張していることができて、若々しい血はなくならないであろうし、真の生きがいを感じることが多いだろうと思われる。私のように、昔の何かの小説にある老いぼれの良人のようにあなた一人をただ夢中に愛しているようなことはあなたのために結構なことではありませんよ。そんなことはあなたが世間からはなやかに見られることでは少しもないからね」
夕霧は小野の手紙をいざこざなしに取ってしまいたい心から妻を欺くと、夫人は派手《はで》に笑って、
「はなやかなことをあなたがしようとしていらっしゃるから、古いじみな女の私が一方で苦しんでいるのですよ。にわかにすっかりまじめでなくおなりになったのですもの、私にはそうした習慣がついていないのですから苦しくてなりません。初めからそうしておいでになればよかったのよ」
と恨めしがる妻も憎くはなかった。
「にわかにとあなたが思うようなことが私のどこにあるのですか、あなたは疑い深いのですね。私を中傷する人があるのでしょう。そうした人たちは初めから私に敵意を見せていたものだ。浅葱《あさぎ》の色の位階服が軽蔑《けいべつ》すべきであった私を、今だってあなたの良人にさせておくのが残念で、何かほかの考えを持っている者などがあって、いろんなない噂《うわさ》をあなたに聞かせるのだろう。一方で私のためにそうした濡衣《ぬれぎぬ》を着せられておいでになる方もお気の毒なものだ」
などと言いながらも夕霧は、女二《にょに》の宮《みや》の御良人となることも堅く期しているのであるから、深く弁明はしようとしないのであった。乳母《めのと》の大輔《たゆう》は気術《きじゅつ》ながって何も言おうとしなかった。なお夫人は奪った手紙を返そうとはせずにどこかへ隠してしまった。夕霧は無理に取り返そうとはせずに、冷静に見せて寝についたのであるが、動悸《どうき》ばかり高く打ってならなかった。どうかして取り返したい、御息所の手紙らしい、どんな内容なのであろうと思うと眠ることもできないのである。夫人が寝入ってしまったので、宵《よい》にいた所の敷き物の下などをさりげなく大将は捜すのであるが見つからなかった。深く隠すだけの時間のなかったのを思うと、近い所に置かれてあるに違いないと思うのに見つけられないのが歯がゆくて、悩ましい気持ちになり、夜が明けてもなお起きようとしなかった。夫人は子供に起こされて寝所からいざって出る時に、夕霧も今目をさましたふうに半身を起こして、昨夜の手紙をまたも捜そうとするのであったが、見つけることは不可能であった。夫人は良人《おっと》がそんなふうにほしがらぬ手紙はやはり恋の消息ではなかったのであろうと思って、もう気にもかからなかった。子供がそばで騒ぎまわったり、やや大きい子が人形を作って遊んだり、本を読んだり、手習いをしたりするのをいちいち見てやらねばならぬ忙しい時にも、また一人の小さい子が後ろから這《は》いかかって来てつかまり立ちをしようとするような、母であるための繁忙に追われて、夫人はもう奪った手紙のことなどは忘れ切っていた。男は他のことはいっさい思われないほど手紙がほしかった。小野へ今朝早く消息をしたいと思うのであるが、昨夜の手紙に書かれてあったことをよく見なかったのであるから、それに触れずに手紙を書いては、先方のものをそまつに取り扱って散らせてしまったことが知れてまずいことになると煩悶をしていた。夫婦も子供たちも食事を済ませてのどかになった昼ごろに、大将は思いあまって夫人に言うのであった。
「昨夜のお手紙には何と書いてあったのですか。ばかなことを言ってあなたが見せてくれないものだから、今日もこれからお見舞いをしなければならないのに困ってしまう。私は気分が悪くて今日は六条へも行きたくないから、手紙で言ってあげなければならないのだが、昨日のことがわからないでは不都合だから」
夕霧の様子はきわめてさりげないものであったから、手紙を隠した自身の所作が、むだなことをしたものであると思うと、急に恥ずかしくなったが、それは言わずに、
「先夜の山風に身体《からだ》を悪くいたしましたからとお言いわけをなさればいいじゃありませんか」
と言った。
「つまらんことばかり言うのですね。何もおもしろくないじゃありませんか。私が世間並みの男のように言われるのを聞くとかえってきまりが悪くなりますよ。女房たちなども不思議な堅い男を疑うあなたを笑うだろうに」
冗談《じょうだん》にして、また、
「昨夜《ゆうべ》の手紙はどこ」
と言ったが、なおすぐに取り出そうとは夫人のしないままで、ほかの話などをしてしばらく寝ていたが、そのうちに日が暮れた。蜩《ひぐらし》の声に驚いて目をさました大将は、この時刻に山荘の庭を霧がどんなに深くふさいでいることであろう、情けないことである、今日のうちに昨日の手紙の返事をすら自分は送ることができなかったのであると思って、何でもないふうに硯《すずり》の墨をすりながら、どんなふうに書いて送ったものであろうと歎息《たんそく》をして一所を見つめていた目に敷き畳の奥のほうの少し上がっている所を発見した。試みにそこを上げてみると、昨日の手紙は下にはさまれてあった。うれしくも思われまたばかばかしくも夕霧は思った。微笑をしながら読んでみると、それは苦しい複雑な心を重態の病人が伝えているものであったから、大将の鼓動は急に高くなって、自分がしいて結合を遂げたものとして書かれてあると思うと気の毒で心苦しくて、第二の夜の昨夜に自分の行かなかったことでどんな
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